風船を抱えて旅をすること。風船を見つめながら日常を過ごすこと。

大阪は暑かった。

あの日はどこも暑かったのだろうけど。大阪とは言え日帰りだった為「万博記念公園」に行くだけでたこ焼きも食べずに帰ってきた。

 

風船のように音もなく膨らんだモヤモヤをプスーっと吐き出す為には、自分の知らない事を見つけに行くのが一番いいと、私と向き合って29年の私職人こと私がそう言っている。

タイミングが悪く通勤ラッシュと重なってしまい、1駅ごとに降りては休憩しまた進んだけれどそれすらもオーケーとしてしまう「知らない場所での自分の位置」みたいなものに安心する。階段ですれ違った人も、売店のおばさんも、道を聞かれたその人も、今日だけ会う「今日だけの私を知る人達」だ。

万が一何処かで再会するかもしれないけれど、今しかすれ違わない人たちだからこそ、いつもの自分で居なければならないという概念がスーッと消える。なるべく問題なく過ごしたいと常日頃から思っては居るけれど、知らない場だとより明るく丁寧に接するぞ~と思えるから不思議だ。外面がいいのかな、そうだろうな…。

そもそも「いつもの自分」ってなんだよオイ、とは思うのだけど。

 

日常のルーチンが人生を作りあげているとは思っているけど、毎日が続きではなく毎朝生まれ変わっている感覚でいたいなとずっと思ってきた。

何事に対しても少し離れてから初めて「あ、疲れていたんだな」と気がつく。毎日の延長であるとそこに気がつけずにスピードが大事!とフルスロットルで全部をこなそうとする。出来もしないのに。

忙しいというセリフは嫌いだ。忙しいといのは自分が組んだスケジュールによって生まれるものだと思っているから、そのセリフを吐くのはつまり「私は自分のスケジュール管理が出来ていません」と告白しているようなもんだから。(かと言って忙しいのは心を無くすと書くのよ!とか説教するやつはもっと嫌いだ)

だけど自分の疲れているに対して自覚がないというのは怖ろしいことでもある。それによってあらゆる物事に対する自分の対応や感覚が数ミリずつズレていき、それが原因不明のもやもやを生み風船は大きくなる。

 

知らない場所、知らない事、知らない誰か、今日しか居ない自分を見つける事は風船をしぼませる行為である。精神はどこにも行きたくない何時も同じ場所で穏やかに過ごしたいと思っているのであっちこっちに動く心が騒がしい。

 

みんなそれぞれの方法で膨らんだ風船の調整をし、それでも風船は常にあるものだからうまく付き合うしかないんだなと分かってきた、ようやく。(いつか風船のお別れする日がくるのだろうか…)明日起きた時にカチッとズレを戻したいつもの自分であること願いつつ髪も乾ききらないままバタンと倒れて眠った。

知らないものを感じられるわくわくと、穏やかに落ち着きたい不安とがあって
しかしながらいつだって旅はとても疲れて、旅はとても楽しい。

 

 

眠らぬ夜の仕事に凝縮されためまぐるしい真っ直ぐな「生きる」

裏口から入る仕事はだいたい面白いを通説としている私は今、ラブホテルのお手伝いを月の何日かしている。

 

人が入れ替わり立ち替わり「性にまつわるドラマを真剣に抱えやってくる場所」はまっすぐで面白い。日本ほどバライティかつ清潔感と居心地の良さを兼ね揃えたラブホテルって無いのではないかなあとかつて海外の知人が話していた。

そうかもしれない。イケナイコトだという背徳感がこの職業を成り立たせている気もする。私はそういうドラマと同時に、裏で働く人々が実にドライかつ軽快であるそのギャップがとても好き。

 

働く人は「仕事」をこなしに交代制でやって来て、限られた時間の中で見事に沢山の部屋をセットし、電話応対をし、オーダーを作り、清掃する。

時々度肝を抜くお客さんが居たり、笑うしかないようなトラブルがあってそれでも部屋の中の人々が抱えるドラマを尻目に裏方ではスタッフが淡々と働いている。どちらもきちんと生きている感じがしてとても良い。

 

先日オーダーを持って行ったら中から網タイツの男性が出てきて(本来は対面せずとやり取りが出来る)わ!と思ったし相手もシマッタ!という顔をしていた。ある日はお金が足りないからという理由でATMに行く許可がほしいと頼まれたお客の連絡先を伺いに行ったら元職場の上司だった。

 

みんな必死で生きている。普段とは違う空間でそれでも自分自身の一面を生きている感じがヒシヒシ伝わってきて私は楽しくなる。どんなに怒りっぽい人も苦手な人も昨日腹が立った相手にさえも、どこかでこんな夜を過ごしているのかと思うと不思議と許せたりするから面白い。性欲は生活の一部であり、しかしながら隠さなくてはいけないと大人になればなるほどみんな一生懸命になりながら、日々を過ごしている。

 

「今日はさ、給料日後だからヘルスちゃんが良く来るのよ~」

風俗嬢の事をヘルスちゃんと呼ぶスタッフの言い回しがとても好きだと思った。デリヘルで働く人たちのドラマも私は知っているので(元デリヘルスタッフです)複雑かつ人が踏み入れない彼女たちの事をちょっとポップに言ってて良いなと思った。

キレイに揃えられたヒールと男性靴の趣味があまりにアンバランスだったり、オーダーの電話や受取を女の子がしていたら大体がヘルスちゃんだ。彼女たちもまた一生懸命「生きる」を模索して立っている。回りくどくなくシンプルでストレートな世界が一晩のラブホテル内で幾度となく流れていく。

ホテルの向かいにはどういう趣か葬儀場が構えてあって、たまに一晩中火が灯っている。めまぐるしいホテル内の動きをこなしながら部屋の窓からちらりと灯火が見えた時、この空間と対比したあの場所も含めて人生の縮図だなあなんて思う。そうぼんやり考える暇もなく時間は流れて行くのだけど。

深夜過ぎにやっと動きが緩やかになった頃、汗を流し走り回っていたスタッフたちが「今日もおわりじゃ~」と嬉しそうにタイムカードを押して行く。ここは人が知らない世界。だけどきちんと生きるが流れている世界。

みんな楽しい生活を。今しかできない生活を。未来につながる想いを抱いて生に執着することこそが明日を生きる糧になるのだとラブホテルの一晩をみると余計にでも強く思う。

 

 

 

 

 

明日も明後日もオールオッケーよ

山のように積まれた未回収のゴミたちがこのお休みの激しさを物語る連休明け。否、私にとっては連勤の終わり。

ハローハロー日常世界。

 

大型連休独特のふわふわとした空気、みんなが纏っている「いつもと違うぞ」がキラキラしていて眩しかった。どこへ行っても人が多いと分かっているのにそれでも出かけてしまうのは、今しかない!今楽しむしか!という気持ちが大きいのかなあと思った。

社会人になってから今までGWがある職業に付いたことは無いのだけれど、私もお休みだったらどこかに行っていたのかなあと、人混みを嫌いつつそれでもちょっとした憧れを抱き、みんなの連休報告を見聞きする。

 

私はおそらく人より抱えきれる情報が少ない。明日も明後日も眩しい生活は楽しいのだろうけど抱えきれずに取りこぼし、忘れ消え去ってしまう事が多いだろうなと安易に予想がつく。

その人に見合うようにお休みも出来事も、世の中では設定されているのかしらと思うくらいに…いや本人がおのずと寄せて行っているのだろうけどみんな自分に合った自分なりの非日常を握りしめ、日々を過ごしているんだろうなと思う。

日曜日にお休みが被ったから人が集まる公園のフリマに出店し、様々な人を眺め、要らなくなったTシャツを手放した。とてもかわいい女の子たちがまたあらたなTシャツの持ち主になっていくのを見届け、お天気は良く、それだけで祝杯をあげたくなるのだった。他人の日常に私のTシャツたちが早く馴染んで新たな時を重ねますように。良い人達の日常が続きますように。

 

花にたっぷりと水をあげ、パシッとした青空の下シーツを干し、夜のラジオをゲラゲラ笑いながら聞きアイロンをかける。なんてことのないお休み。だけど連休の連勤(ややこしいな)を頑張った私の僅かな喜びをアイロンに乗せて滑らせた夜。

大型連休もビッグイベントもない年間ではあるけれど、こうやって私は両手で抱えきれるだけの情報を喜びとして見出す生活を重ねる。

 私の楽しみは私でしか作れないのだ。自分の時間を守れるのは自分しかいないという経典モモの教えを忠実に守る私よ。

これからまだ続く2017の日々をしっかり咀嚼しようと決めた連勤の日々と日曜日のお休みの話。

 

 

美味しいは正義。

 

嫌なことがあった。他人の理不尽な暴言と蔑む態度を目の当たりにした。仕事である立場と個人の苦しみに対してヒリヒリとした心を抱えたまま、これをどう自分の中で落とし込むか考えて半日ぐぐぐと苦しんだ。

 

いつも通りの仕事をしっかりこなし、お昼はみんなで食卓を囲んだ。今日は職場のみんなでご飯を作って食べる日だったから。

今朝のニュースを話す傍ら「ごはん、やっぱり水が多すぎたね。」とやわやわな筍ご飯のつつきながら「でも出汁は効いてるし、良い味だよ」とお代わりを差し出す同期。後輩は「俺筍とか食べないんすよね。なんかしわしわする!」と突くだけで箸が進まない筍の煮物を見つめながらぶつぶつ言う。

「この味が分からないのはまだまだお子ちゃま」「イヤ、味覚が老化してるんですよ、それは」なんて悪態つきつつみんな笑ってご飯を食べる。

 

それを眺めていた別の上司がにこにこしながら「なんでもみんなで食べれば美味しいなあ」とふんわり発した。誰も言わなかったけどみんな、うん、そうだなという顔をして目の前に並ぶ今年初の筍を食べた。おいしかった。

 

美味しいは正義だ。ごちそうでなくとも、おいしいはしっかりとそこにある。食卓は日々を反映し、また日々を回復させる。職場でもさほどしゃべらない私はただひたすらに筍うめえなあ~。よくこれを最初に食べようと思ったよな~昔の人は。と初代筍調理人(そんな人がいるのかは不明だけどきっと居る)に脳内で感謝しながら咀嚼→幸せの無限ループを体感していた。

たわいのない会話、穏やかな表情、テレビじゃない人の声が響く空間、それも全部咀嚼→幸せの中に組み込まれ「ああ、これが美味しいは正義なんだよな」と自分で改めて感じつつ。

 

自分の心が傷付けられてまでやらなければいけない仕事は無いよ、という話を上司が静かにけれどしっかりと話してくれた。そういったものはすべて捨ててしまおう、とも。一人でヒリヒリしているよりも捨ててしまって良いよ。傷つけた側を知り、そうじゃないようになろうと思えればそれだけで良しだよ、とも。

 

そうだそうだ、そうだった。美味しいを得て肯定的になれた私は素直にその言葉を飲み込んだ。正義である美味しいと上司のその一言でめきめきと日々を回復させる私は半日潰してしまったヒリヒリの心に喝と労りを込めて心の中で唱えた。

どんなに苦しくても「ごはんうまい」がある限り大丈夫。そしてグッサグサに心をえぐるモノからは全力で逃げよう。笑いながら全力で。

 

投げつけられた他人の毒気をたわやかな己の歩みと昇華して明日を進むのだ。

 

 

白日

「かわいい」が挨拶のような、美への基準がぐんぐん上がっているとひしひし伝わる日々の空気。求められる可愛さとは逆に下げられていく服の価格。毎週毎週新作が並ぶ店頭で「ああ、誰が泣いているんだろう」という考えが一瞬頭によぎる。

値段関係なく本当に気に入ったものしか買わない、買ったら大事に着るを己のルールとすることでせめてもの救いを(自分の罪悪感に対しての)と思っているけどその救いも通用するのは身にまとうものだけに限られるのではと思う。

服とは違い目に見えない自分自身のあるべき姿を平凡な日々で描くため、尚更重要になってくるのが自分のセンスただ一択。服のように毎週新作とはいかない。それでかつ表現とは常に動いているのだからこれでいいのかという疑問は24時間つきまとう。

 

お母さんのお腹の中にセンスを置いてきた私は、ふと両手を見たところで「おやまあ何もねぇ」の感想しか出てこない。

彼女と出会ったのは何がきっかけか。ぼんやりとしか思い出せないけど今でも鮮明に覚えているのは「私は自分のセンスに確固たる自信がある」と言ったことだ。その言葉は一ミリも嫌味がなく、完全に彼女そのものだった。

 

出会って数年経つ今日もそんな事を思い出しながらジュウジュウとたこ焼きを作った。ここではない何処かへ。それは幻想のまるで魔法の台詞のようだと残りわずかな20代を過ごす自分を思い、それでも目の前のたこ焼きは美味い。流れる「真昼に見た夢」が終るころ私たちは満足してソファを見に出かける。

 

一人暮らしの部屋には大きすぎるソファを物色しながら、これがあったらという想像を話しては盛り上がる。フェイクで飾られた風景の壁紙を見ながら展示のソファに座り込みこれが夢見たアーバンライフかとふざけたりした。

帰り際、ポツンと川沿いに立つ風景とはアンバランスな派手なハイツの壁面にデカデカと「アーバンライフB」という名前を発見してお互いクスッとなる。

 

私たちが描くのはアーバンライフではない。ルーラルを楽しめる柔軟さと敏感な選択。そこに立つまでに背負ったものを払拭し、確固たるセンスをぐっと握りしめた彼女の背中はいつも優しい。そして華奢な体に反して大きく見える。

私の大好きな人たちはいつもそうだ。決して横柄でなく自分の存在を丁寧に表現できる。改めてこれからもその先を見つめる彼女達の片隅に穏やかに在ることができればなと思った。

たこ焼き美味しかったなあ。

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日々の延長

寝て起きて仕事に行き帰宅後ねこと遊び過ごす毎日。

日々ラジオを聴き、自炊で三食摂り、花に水をやる。

「おだやかな暮らし」と言うやつのお手本のような生活だと思うのだけど

私の暮らしはきっと人々にとっては退屈であろうなと思う。

例え褒め言葉であろうとも「変わっているね」と言われると心底ショックだ。

それと同時に変わっている事を率先して好む人達も少し苦手だ。

選ばれし己のセンス!という選民意識が強い集団はとてもこわい。

 

なるべく波風起こさず、何かの活動をするわけでもなく、読書も映画も見ず

旅行も一人でする。

 

子供も老人も男も女も、基本的に私は人間が好きだ。

種として同じとされるけれど個々がこれほど違う生き物が沢山、なんて面白いんだろうと思う。だけど常に行動を共にしたいわけじゃない。

 

人と関わる事でエネルギーをぐんぐん循環させる人たちがいるとしたら

私は自分の内の内の方で沸き立つ気持ちをひとつひとつ消化するタイプだと思う。

こう割り切れるようになったのも最近で、みんなが言うフツーに追いつけなくて混乱していた時期もあった。

 

即反応、即判断、即評価が最近の流れなのか素人だろうがなんだろうが関係なくなんでも感想や意見を発信する世間のなかで「よくわからない」という感情をずっと抱え込む私はオカシイのかもしれない。

だけどすぐに何かを見出すのはとても難しい、私にとっては。

 抱え込んだものとずっと向き合う事に集中すると日常を生活するので手一杯になる。

外に出る事が楽しいと思えない日もある。

 

昨日見た桜は満開だった。寄ってきた子供に「なんさいですか」と訪ねたらはっきりとした口調で「35さい」と答えた。まさかの先輩。

年齢はただの数字でしか無く、物事の感情をどう捉えるかの基準にはならない。

その35さいの小さい先輩とお花がきれいだね、そうだねとぼんやりおなじものを見つめていた。彼女の中で思い描くその感情と私のとはきっと全然違うのだろう。

だけどそれを表明することなく(その方法も分からず)ただ無言で見つめる空気が静かで心地よかった。

 

 生活の1秒が続いていく明日であることの幸せをその子も感じて大きくなってほしい。

平凡が一番だよ。美味しい、楽しい、美しいで満たされた穏やかな日々よ。

 

 

 

 

somewhere called phantasien

一昨年のこと、見たことも会った事もない親戚を訪ねて1人で四国へ出向いた。母親の出生地を調べその街へ行き、数年前まで年賀状でのみやり取りをしていたという親戚の住所もメモに書き留めて、瀬戸内海を渡り自転車をぶっ飛ばした。

なんでそんな事をしたのか、人に聞かれてもうまく説明できないのだけど、物理的なとこの「私はどこから来たのか…」ってやつが知りたいなと思ったから。アイデンティティなんて大それた言い方は違う気がするけど、おじいちゃん、ひいおじいちゃんそのまたおじいちゃんがどこからやって来たのかを正確に知ってる人ってなかなか居ないんじゃないかな。私なんて20を過ぎるまで自分がオランダの血を引いているなんて知らなかった(1/8なんてゼロに等しいが)

 

どこから来たかが分かったところで自分がどこへ行くのか決まるわけもないけれど。

 

田舎の若者がこぞって都会を目指す。

東京はいつだってカッコイイ存在であって欲しいな、と都会にためらって踏み出せなかった私は思う。

いつだったか新宿生まれ新宿育ちの友人に「みんなみんな東京を目指してやってくるのが常だけど、元々都会育ちは将来的にどこへ行きたがるの?」と聞いたら「どこも目指しませんよ。何か希望を土地に託すのは違う気がするんです。」と返答された。

そんな彼女は早々にアッチに行ってしまって、目指してたのはそっちかよ…と将来私が死んだら怒りに行こうと思っている。

 

どこから来てどこへ行くのか。何から生まれて何を以て過ごすのか。

 

親しくしてくれる何人からか「きみは戸惑うほどまっすぐな事があるよ」と言われた。それでしか過ごせなかった私はその言葉が持つ意味をうまく消化出来ずにいる。視力が良すぎると遠くの壁の汚れまで見えちゃって苦しくなることがある、きっとそんな感じと新宿ガールは言ってたっけな。

自分がいる場所が把握出来なくて胃が浮く不快感を覚える事が多々ある。

 

数年前目指した、見たことも会ったことも無い親戚は不審がることもなく私を受け入れてくれたその一番の理由に「おじいちゃんにそっくりやわ、顔から形から話し方まで」と言った。

それがとてもとても嬉しかった。母が高校の時に亡くなってしまったおじいちゃんには当然会うことは無かったのだけど、話で聞く彼は触れたことが無くとも私の大好きなおじいちゃんであったから。

 

親戚のその一言で少し楽になった。

ああ、このワケの分からない浮いた不快感を抱えたままでも良いのか。そう自分自身で安心できたからかもしれない。

もしかしたらみんなこの気持を抱えているのかも知れない。私が聞いて来なかっただけで。

 

目指す場所還る場所その実態が分からないままみんな過ごしているのだと思うと、きっとそこは良いところに違いないと思ってしまう。

それぞれにぴったり沿った場所へ、きちんと向かうのであろう。私が強く芯にすべきなのは優しさよりも誠実であろう、いつだって。

 

さあ4月。新しい年だ。力みすぎず季節と心の変化に敏感に、物事を柔らかく扱える春にしたい。