雨が止んだあとは

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私は人の恋愛をどうとか、相手の人はどうとか、それはやめた方がいいとか言いたくない。友人が選ぶ人はどこまでも大好きでいてほしい。大丈夫だよとずっと声をかけていたい。

世間でいうところの恋話で求められてもいないお節介を焼くコメントなどはクソだと思っているが、 それでも私の大好きな人が幸せそうで本当に嬉しいという気持ちは素直に伝えて帰宅した旅。

彼氏が全ての世界で生きていないけれど、家族でも友人でもなくまた別の自分の帰る場所があること、こころのよりどころがあること、大事にしたいなと思える人が増える事をお祝いせずにはいられまい!!と帰り際渡されたおみやげのチョコを片手にかんぱーいと祝杯をあげた自宅での深夜。

あ~!私の人生に関わる大好きな人達の所作1ミリ足りとも残らず見届けたい。

 

アイスは溶けるからカロリーゼロだよといって友人の彼氏のアイスまで食べてしまい申し訳なかった。

 

ずっとぐずついた天気だったけど帰り際わずかに晴れ間が見えて、今までぐっと苦しんでいた友人の未来を示すかのようで一人小躍りをした(怪しい)

みんなみんな誰かにとっての愛おしい人。

 

 

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はだしで芝生の上を跳ねるのは何歳になっても気持ちがいい

6月は無かった

 

と勘違いするくらい早かった。もう7月も4日過ぎてきっと今年は7月無いはず。

前髪をばっさり切ってヘルメットみたいになった。安全第一ステッカーでも貼ろうかな。

大量にもらったきゅうりをクーラーの効かない部屋でタンクトップ一枚着た私がバリバリ食べる、という姿が夏の定番。

先日きゅうりを大量にもらったのでそろそろ準備をしなければと思っている。

 

でも今年はようやくクーラーをつけるかな。

暑かろうがなんだろうがどうでもいいわと夏に対して諦めの心だったので、何も動かなかったわけだけど、連日吹き出る鼻血が「さすがに死ぬじゃん!」と私を電気屋へ向かわせる。果たしてクーラーと鼻血が繋がっているかは謎なんだけど。

 

あついあつい日、都会の住宅地前に敷かれた人工芝の上へおもむろにレジャーシート広げて乾杯をした先日。

私の親しい人の中で唯一飲酒をする彼女がすすめるお酒を数本飲み、歌を歌いながら漬物を食べていたら、通り過ぎるボートレース帰りのおじさん達に手を振られた。

「巷のおしゃれピクニックだとこんなアクション起こされないでしょうよ」と流石に3人ものおじさん(いずれもボートレース帰り)に手を振られたあたりで彼女がそう言った。エクストリーム飲酒寄合。人が働く時間から寝転がって歌をうたい酒を飲むのは尋常じゃないよな、そりゃおじさんも通ずるものがあると手を振ったのだろうよ、と。彼女は決して大声で笑ったり早口で喋ったりせず私たちは8割ヘラヘラしていた。

 

本当は都会のおしゃれなお店で静かにワインを…という年齢ではあるのだろうけど、芝生に転がり視線の先に居るのは猫だ!と思って近寄ったら剥がれた樹の皮だったりして、もはやそれが人生のすべてを物語ってるわ~と笑った。

理由が無くともよいはずなのに、わざわざ理由をつける為の行動を誰に責められたわけでもないけどついやりがちで座り込んでしまう。

 

起床、洗濯、食事、入浴、日々必ず行う項目のその延長にあるかのようなそれでいてささくれが治まるおだやかな時間を過ごしたい。芝生を後にし、新しいサンダルを買い、嬉しくて履き替えて、コーヒーをコンビニで手に入れ、なんでもない夕日を観てなんだこれは、愛しくて眠たい空気だなぁって微笑んだりした。そして気がつけばすこやかな心を手に入れたのだった。

 

すこやかな心、夏を乗り越える力を。

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雨とカエルとアジサイと共に

梅雨がやってきましたね。

よく降るねえ。

 

そんな会話をよくするようになった。梅雨入りしてまだ数日なのに。

田舎の話題は天気や田畑の事が多く、季節と密接しているなあと思う。世間では梅雨を嫌がる人がが多いけど、このあたりではようやく雨だ、恵みの雨だと昔ばなしのような雨に対する感謝の念が厚い。誰かのツイートにもあったけど、そうか梅雨とは本来美味しいお米やお野菜の為にはとても大切な時期であった、と生活に染み付く梅雨=ダメみたいな感覚を払拭したのだった。

誕生日が梅雨時期なのでいつも私の誕生日付近はみんな嫌なんだな、と幼いころに時期を恨んだりもした。6月生まれは賢い子が多いのよ、と言われて育ったので頑なにその肯定意見を握りしめて生きてきたのだけど、どうやらその説も人によりけりらしいと納得するしかない状況。

私もお米やお野菜のように雨たくさん吸収してどうにかならんもんか。

 

先日会った友人とは数えるともう10年になる付き合いで「ありがたや~。これからもどうぞよろしく~」と互いに深々と礼をした。街のど真ん中で。

定期で人生どうでも飯田橋とつぶやきつつ過ごすくらいに何も手に残らない生活をしており、我ながらどうなんだよおいとは思って唖然とする日もあるけれど気がつけば10年、誰かの記憶に留まっているのは大変うれしい。

カウンセリングの先生は私の事を「外界からの刺激を深く感じ取り、心に受け止める能力が高すぎる」となんとも高貴な感じで言ってはくれたものの、要は感受の門が開けっ放しなのでなにもかもお構いなしにドバドバ入って来ては一喜一憂して疲れてるんだから、しっかり門番備えろや!!という実態に立ちすくんでは見てみぬふりをしている。

 

面と中身は伴わないものよのう…とただ生きてきた道を振り返りつつ10年来の彼女たちは皆私のことを「精霊ぽい」だの「癒やしの生き物」だの言ってくれては大切に付き合ってくれているその位置に甘えている。ありがたく人間を離れてみるかと思った矢先、われら青春のSWIMMER終了のお知らせ。ファンシーの代表だったブランドが幕を下ろすだなんて…眩しさの、キラメキの、与えられた夢の終了だ。ガーン!

そうか時間と時代は確実に流れているのだ。突きつけられる現実に死んでも人間辞められんわと脱人間説からの脱。

梅雨が梅雨で良かったと気がつけたのだから、門番なしの心で良かったといつか思えるようになるだろうとまた10年進む気がする。

門番構えて無である心で10年過ごしたところで私の生活満たされた!とはならないのはなんとなく分かっている。お腹いっぱいになったとしてもクソつまらん時間だとは思いたくない。

 

人生に区切りを付けるのは苦手ではあるけれど、まあ歳を取るときぐらい気合を入れても良いでしょうと私のなかの穏やかな私が許可を出す。抱えきれない自分の「出来ない」を目の前に、乗り出せるのか私。死を選ぶこと無く進んだ自分を無(ム)では無いよと思えるように。

OK余裕 未来は俺等の手の中

 

 

風船を抱えて旅をすること。風船を見つめながら日常を過ごすこと。

大阪は暑かった。

あの日はどこも暑かったのだろうけど。大阪とは言え日帰りだった為「万博記念公園」に行くだけでたこ焼きも食べずに帰ってきた。

 

風船のように音もなく膨らんだモヤモヤをプスーっと吐き出す為には、自分の知らない事を見つけに行くのが一番いいと、私と向き合って29年の私職人こと私がそう言っている。

タイミングが悪く通勤ラッシュと重なってしまい、1駅ごとに降りては休憩しまた進んだけれどそれすらもオーケーとしてしまう「知らない場所での自分の位置」みたいなものに安心する。階段ですれ違った人も、売店のおばさんも、道を聞かれたその人も、今日だけ会う「今日だけの私を知る人達」だ。

万が一何処かで再会するかもしれないけれど、今しかすれ違わない人たちだからこそ、いつもの自分で居なければならないという概念がスーッと消える。なるべく問題なく過ごしたいと常日頃から思っては居るけれど、知らない場だとより明るく丁寧に接するぞ~と思えるから不思議だ。外面がいいのかな、そうだろうな…。

そもそも「いつもの自分」ってなんだよオイ、とは思うのだけど。

 

日常のルーチンが人生を作りあげているとは思っているけど、毎日が続きではなく毎朝生まれ変わっている感覚でいたいなとずっと思ってきた。

何事に対しても少し離れてから初めて「あ、疲れていたんだな」と気がつく。毎日の延長であるとそこに気がつけずにスピードが大事!とフルスロットルで全部をこなそうとする。出来もしないのに。

忙しいというセリフは嫌いだ。忙しいといのは自分が組んだスケジュールによって生まれるものだと思っているから、そのセリフを吐くのはつまり「私は自分のスケジュール管理が出来ていません」と告白しているようなもんだから。(かと言って忙しいのは心を無くすと書くのよ!とか説教するやつはもっと嫌いだ)

だけど自分の疲れているに対して自覚がないというのは怖ろしいことでもある。それによってあらゆる物事に対する自分の対応や感覚が数ミリずつズレていき、それが原因不明のもやもやを生み風船は大きくなる。

 

知らない場所、知らない事、知らない誰か、今日しか居ない自分を見つける事は風船をしぼませる行為である。精神はどこにも行きたくない何時も同じ場所で穏やかに過ごしたいと思っているのであっちこっちに動く心が騒がしい。

 

みんなそれぞれの方法で膨らんだ風船の調整をし、それでも風船は常にあるものだからうまく付き合うしかないんだなと分かってきた、ようやく。(いつか風船のお別れする日がくるのだろうか…)明日起きた時にカチッとズレを戻したいつもの自分であること願いつつ髪も乾ききらないままバタンと倒れて眠った。

知らないものを感じられるわくわくと、穏やかに落ち着きたい不安とがあって
しかしながらいつだって旅はとても疲れて、旅はとても楽しい。

 

 

眠らぬ夜の仕事に凝縮されためまぐるしい真っ直ぐな「生きる」

裏口から入る仕事はだいたい面白いを通説としている私は今、ラブホテルのお手伝いを月の何日かしている。

 

人が入れ替わり立ち替わり「性にまつわるドラマを真剣に抱えやってくる場所」はまっすぐで面白い。日本ほどバライティかつ清潔感と居心地の良さを兼ね揃えたラブホテルって無いのではないかなあとかつて海外の知人が話していた。

そうかもしれない。イケナイコトだという背徳感がこの職業を成り立たせている気もする。私はそういうドラマと同時に、裏で働く人々が実にドライかつ軽快であるそのギャップがとても好き。

 

働く人は「仕事」をこなしに交代制でやって来て、限られた時間の中で見事に沢山の部屋をセットし、電話応対をし、オーダーを作り、清掃する。

時々度肝を抜くお客さんが居たり、笑うしかないようなトラブルがあってそれでも部屋の中の人々が抱えるドラマを尻目に裏方ではスタッフが淡々と働いている。どちらもきちんと生きている感じがしてとても良い。

 

先日オーダーを持って行ったら中から網タイツの男性が出てきて(本来は対面せずとやり取りが出来る)わ!と思ったし相手もシマッタ!という顔をしていた。ある日はお金が足りないからという理由でATMに行く許可がほしいと頼まれたお客の連絡先を伺いに行ったら元職場の上司だった。

 

みんな必死で生きている。普段とは違う空間でそれでも自分自身の一面を生きている感じがヒシヒシ伝わってきて私は楽しくなる。どんなに怒りっぽい人も苦手な人も昨日腹が立った相手にさえも、どこかでこんな夜を過ごしているのかと思うと不思議と許せたりするから面白い。性欲は生活の一部であり、しかしながら隠さなくてはいけないと大人になればなるほどみんな一生懸命になりながら、日々を過ごしている。

 

「今日はさ、給料日後だからヘルスちゃんが良く来るのよ~」

風俗嬢の事をヘルスちゃんと呼ぶスタッフの言い回しがとても好きだと思った。デリヘルで働く人たちのドラマも私は知っているので(元デリヘルスタッフです)複雑かつ人が踏み入れない彼女たちの事をちょっとポップに言ってて良いなと思った。

キレイに揃えられたヒールと男性靴の趣味があまりにアンバランスだったり、オーダーの電話や受取を女の子がしていたら大体がヘルスちゃんだ。彼女たちもまた一生懸命「生きる」を模索して立っている。回りくどくなくシンプルでストレートな世界が一晩のラブホテル内で幾度となく流れていく。

ホテルの向かいにはどういう趣か葬儀場が構えてあって、たまに一晩中火が灯っている。めまぐるしいホテル内の動きをこなしながら部屋の窓からちらりと灯火が見えた時、この空間と対比したあの場所も含めて人生の縮図だなあなんて思う。そうぼんやり考える暇もなく時間は流れて行くのだけど。

深夜過ぎにやっと動きが緩やかになった頃、汗を流し走り回っていたスタッフたちが「今日もおわりじゃ~」と嬉しそうにタイムカードを押して行く。ここは人が知らない世界。だけどきちんと生きるが流れている世界。

みんな楽しい生活を。今しかできない生活を。未来につながる想いを抱いて生に執着することこそが明日を生きる糧になるのだとラブホテルの一晩をみると余計にでも強く思う。

 

 

 

 

 

明日も明後日もオールオッケーよ

山のように積まれた未回収のゴミたちがこのお休みの激しさを物語る連休明け。否、私にとっては連勤の終わり。

ハローハロー日常世界。

 

大型連休独特のふわふわとした空気、みんなが纏っている「いつもと違うぞ」がキラキラしていて眩しかった。どこへ行っても人が多いと分かっているのにそれでも出かけてしまうのは、今しかない!今楽しむしか!という気持ちが大きいのかなあと思った。

社会人になってから今までGWがある職業に付いたことは無いのだけれど、私もお休みだったらどこかに行っていたのかなあと、人混みを嫌いつつそれでもちょっとした憧れを抱き、みんなの連休報告を見聞きする。

 

私はおそらく人より抱えきれる情報が少ない。明日も明後日も眩しい生活は楽しいのだろうけど抱えきれずに取りこぼし、忘れ消え去ってしまう事が多いだろうなと安易に予想がつく。

その人に見合うようにお休みも出来事も、世の中では設定されているのかしらと思うくらいに…いや本人がおのずと寄せて行っているのだろうけどみんな自分に合った自分なりの非日常を握りしめ、日々を過ごしているんだろうなと思う。

日曜日にお休みが被ったから人が集まる公園のフリマに出店し、様々な人を眺め、要らなくなったTシャツを手放した。とてもかわいい女の子たちがまたあらたなTシャツの持ち主になっていくのを見届け、お天気は良く、それだけで祝杯をあげたくなるのだった。他人の日常に私のTシャツたちが早く馴染んで新たな時を重ねますように。良い人達の日常が続きますように。

 

花にたっぷりと水をあげ、パシッとした青空の下シーツを干し、夜のラジオをゲラゲラ笑いながら聞きアイロンをかける。なんてことのないお休み。だけど連休の連勤(ややこしいな)を頑張った私の僅かな喜びをアイロンに乗せて滑らせた夜。

大型連休もビッグイベントもない年間ではあるけれど、こうやって私は両手で抱えきれるだけの情報を喜びとして見出す生活を重ねる。

 私の楽しみは私でしか作れないのだ。自分の時間を守れるのは自分しかいないという経典モモの教えを忠実に守る私よ。

これからまだ続く2017の日々をしっかり咀嚼しようと決めた連勤の日々と日曜日のお休みの話。

 

 

美味しいは正義。

 

嫌なことがあった。他人の理不尽な暴言と蔑む態度を目の当たりにした。仕事である立場と個人の苦しみに対してヒリヒリとした心を抱えたまま、これをどう自分の中で落とし込むか考えて半日ぐぐぐと苦しんだ。

 

いつも通りの仕事をしっかりこなし、お昼はみんなで食卓を囲んだ。今日は職場のみんなでご飯を作って食べる日だったから。

今朝のニュースを話す傍ら「ごはん、やっぱり水が多すぎたね。」とやわやわな筍ご飯のつつきながら「でも出汁は効いてるし、良い味だよ」とお代わりを差し出す同期。後輩は「俺筍とか食べないんすよね。なんかしわしわする!」と突くだけで箸が進まない筍の煮物を見つめながらぶつぶつ言う。

「この味が分からないのはまだまだお子ちゃま」「イヤ、味覚が老化してるんですよ、それは」なんて悪態つきつつみんな笑ってご飯を食べる。

 

それを眺めていた別の上司がにこにこしながら「なんでもみんなで食べれば美味しいなあ」とふんわり発した。誰も言わなかったけどみんな、うん、そうだなという顔をして目の前に並ぶ今年初の筍を食べた。おいしかった。

 

美味しいは正義だ。ごちそうでなくとも、おいしいはしっかりとそこにある。食卓は日々を反映し、また日々を回復させる。職場でもさほどしゃべらない私はただひたすらに筍うめえなあ~。よくこれを最初に食べようと思ったよな~昔の人は。と初代筍調理人(そんな人がいるのかは不明だけどきっと居る)に脳内で感謝しながら咀嚼→幸せの無限ループを体感していた。

たわいのない会話、穏やかな表情、テレビじゃない人の声が響く空間、それも全部咀嚼→幸せの中に組み込まれ「ああ、これが美味しいは正義なんだよな」と自分で改めて感じつつ。

 

自分の心が傷付けられてまでやらなければいけない仕事は無いよ、という話を上司が静かにけれどしっかりと話してくれた。そういったものはすべて捨ててしまおう、とも。一人でヒリヒリしているよりも捨ててしまって良いよ。傷つけた側を知り、そうじゃないようになろうと思えればそれだけで良しだよ、とも。

 

そうだそうだ、そうだった。美味しいを得て肯定的になれた私は素直にその言葉を飲み込んだ。正義である美味しいと上司のその一言でめきめきと日々を回復させる私は半日潰してしまったヒリヒリの心に喝と労りを込めて心の中で唱えた。

どんなに苦しくても「ごはんうまい」がある限り大丈夫。そしてグッサグサに心をえぐるモノからは全力で逃げよう。笑いながら全力で。

 

投げつけられた他人の毒気をたわやかな己の歩みと昇華して明日を進むのだ。