泣いてしまうかもしれない

ちょうど1年ぶりに会う、その事実だけを抱えて過ごしたここ何日間か。

 

きっかけは同じショーに出た事だったけど、そんなことは遠い昔になった10年の付き合いでだけど私は毎回彼女に会うとき「泣いてしまうかもしれない」と思う。

家族のように大切で大好きと慕ってくれる彼女に会える嬉しさがこみ上げて泣きそうになるというのが半分。

もう半分は、果たして私は彼女の横に立って許される存在なのかと突きつけられているプレッシャーである。

背筋がシャンとする。会わない期間私は彼女に見られても恥ずかしくない生活を過ごせていたのだろうか。

自分の将来に向けて着実に進んでいる彼女がもしかしたら遠い存在になっているのではないか…という会ってはじめて実感するその感覚に恐れている。

好きな人には好きだと伝え、しっかり抱きしめて過ごしてきた私は、その不安があったとしてもやっぱり再会した瞬間駆け寄って大きく抱きしめるんだと思う。それしか出来ない。

帰りはもっと違う感情になっているのかな。長野の山奥で響く音に揺れて私は彼女との時間を楽しむ。ただそれだけで良いはずなのに。

泣いてしまうかもしれない。

愛を注ぐ事を惜しまないようにしなきゃ。

 

お天気が良くて一日中ぼーっとした日だった。友人が「職場の先輩、帰宅したら部屋で3時間はぼんやりしないと1日の充電が出来ないって言ってて◯◯(私)ちゃんと同じだ!と思ったよ」と教えてくれた。

自覚は無いけど家では本当にぼーっとしている。なにもしない。転がっている時間が絶対に必要でその先輩とやらは私と仲良くなれそうだな…と思った。

 どんどん流れていく川を見ていると決して向こう岸には渡れないんだろうなと思ってしまう。簡単に見えて遠い世界だ向こう岸。

お互いの思考はすぐ近くにいると思ってたけど大きな川を隔てていたと気がつく事があった。

何か犠牲が出るわけではないけど単純にショックだった。まさかそんな反応をされるとは…という。他人はどこまで行っても他人であるということを嫌味とかいうものではなく事実として認識しておかなきゃなあ。

 

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ものすごい愛

座る間の無いほど走り回る期間が終わった。自分が思っている以上に張り詰めていたようで普段はしないような小さなミスをいくつか起こしてしまった。

今回強く感じたのは、自分の容量を超えるストレスと向き合ったときに全く計算が出来なくなる事と、目の前の相手との会話は耳に入らないのに背後の人たちの会話ばかり耳に入ってきて混乱する、という二点だった。

計算に関しては340+890とかいう小学生レベルのものが出来なくなってしまい相当落ち込んだ。脳で数字が泳ぐような感覚があり桁とか位が意味を持たなくなっていた。まあ電卓を使えばその場は難なくしのげるのでいいんだけど。会話は元々いろんな音が耳につく体質なのにそれがグンと強くなってしまい重要なものだけ聞き分ける事が難しかった。

ここで「ストレス」というのは、単純に疲労も含めての事もあるけど「いつも通りの動きとは違うリズムになった時」私は得体の知れない不安が泡のようにふくらみ、考えるだけで押しつぶされることが多々ある。最近はそろそろリズムが取れなくなる時期が来るな、と先のスケジュールの多忙さを知った時点でその不安がまとわりつくようになった。ひとりの空間にとじこもる事で回避しているストレスがその時間ナシにどう対処するべきなのかが大きな課題になっていて、そもそも泡のような不安がもたらす支障ってどんなことだろうか・・・と観察することから始めようという話になり、なんかヘンだなと思った事をメモしておこうとカウンセリングの先生との話だったのだけど。

やってることが子供の知育遊びのようで、こんなことから潰していかなければ私の心と向き合えないのかとズーンと重くなる。

今なにが必要かって、それはものすごい愛だ。ものすごい愛、それ以外に無い。与えて欲しいわけではなく見つけるだけでもいいし私が愛を注ぐ側でもいいのかもしれない。

先日友人に送ったミックスcdはかなり喜んでくれてそれだけで私はオールオッケーよと口にしてしまったのだけど、そういう事だろう。全て度外視にしてくれるものすごい愛を。

 

私はようやく自分の身長が好きになれたのに

ものすごく不審な話だけど、たまにハッとするくらいリアルな夢を見ることがあってだいたいそれは当たっている事が多い。内容はどうでもいいことで「好きな人の昔付き合っていた女の子がロシアンブルーを飼っていた」というのはだからどうしたNO.1の夢だった(でも当たっていた)

 

今回も多分どうでもいいけど当たってるんだろうな、というような夢をうとうとしながら見た。私はきっと疲れている。離れていく人の手を必死で握ろうとするのはとても格好が悪いから大手を振って見送りたい。

 

相手の嫌なところばかり探してどんよりするのは自分が弱いからだと分かっているので、それも含めて全ておしまいにしよう。

関係ない、と思うと楽になる。もうこれをやらなくていい、考えなくていいし、私のことじゃない。「これから」がないことはとても楽だ。思い煩うことがない。
「これから」は希望だったかもしれないけど、結局呪いでもあったのかもしれない。希望にすがるから動けなくなる。固まってしまう。がんじがらめだ。

でも、「これから」が生きていく指針であることもまた確か。

 

まだ繋がっていると思うから、糸が切れてしまわないか心配になる。糸の切れた凧はふわふわ自由だ。
飛んでいってしまった凧は、きっとどうしたって追えないだろう。風に乗って飛んで行こうが、途中で落ちてしまおうが、手繰り寄せる糸はもうない。


 糸が切れてしまったら、それまで。

 

もっとこうしたかったとか、これがしたかったとか、思っても意味がない。私は意味ないことが嫌い。
だから怒ることも嫌いで苦手。怒ってもどうにもならない。怒りは私にとって無意味だ。

さようなら私の凧。さよなら、綺麗な空、気持ちのいい風、美しい光。

 

日常が目まぐるしく過ぎていく時期が今年もやってきて、踏ん張っていないと私はすぐに折れてしまう。新緑が全て咲ききって梅雨になるころ、私もまた新しく動き出せるだろう。

 

時間が解決するというのは頼りないけど本当のことだ。私は目の前にある業務を淡々とやり続ける。

仕事は好きじゃないけど時に救いとなる。

 

 

 

今日も良い一日でした

私の生活に関わる重要な人たちを好きすぎて「みんな最高!しかし私にはなにも無い・・・人生なにやってんだ」と落ち込むことが多々あるのだけれど、先日その話をしたら

「その人達の仕事はすごいと思うし尊敬しとるし、俺なんかは比較にならんと思うけど、オレ何もない、とは最近あんまり思わんくなってきた。なぜなら今日は天気いいから。天気よくて気分もいいから。」

という回答がきて、この人は本当にすげーなの一言だった。そうだったそうだった。自分が楽しむ方法を心得ようと思ったのはこの人がきっかけだったなと。

べつに今の私の状況を話したとかではないけれどそれでも5年ぶりに色んな事が話せたのは良かった。お互いが今はまっているものが偶然インド由来のもの(ヨガ、舞踊、楽器など)だったのでその話から彼が専攻していた民族と宗教の話なんかもできて

そうそう、こういう自分の頭の中をぐわんぐわんとまわる話題がずっとしたいんだよって興奮した。私は答えを聞きたいわけではなく、そこに行き着くまでの「わからないことをわかるようにする過程」が好きなんだと話しながら強く思った。

楽しすぎて「うは~好きになっちゃうじゃん」と勢いに任せて言ったら冷静に「いや、ならねーだろ」と返され笑顔で「ならない!」と答えた。

お互い本当に話したいことがずっと話せるという時間であったことがどれほど嬉しかったか。

 

自分がどうありたいとか、何が好きとか、どんな思考をめぐらせることに幸せをかんじるかとか、物じゃない好みをもう少し明確にしたいなと思った。今でもそこに対するこだわりは強い方だと思うけど「○○でいいなあ・・・」と眺めるだけはもう飽きたので眺める対象と異なる自分を愛するか、もしくはそこに近づくよう動きたい。

誰かを見てまぶしくなって目を伏せるのは全然幸せじゃない。お天気が良くてぐーんと背伸びをしてまっすぐ自分を見つめられる日をたまにでいいから作ろう。毎日をずらっと並べた時に「なかなか良かったじゃん」と自分で言えるようになりたい。

 
 

 

 

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長く生きてるからといって無条件で敬われると思ったら大間違い!敬うに値しない老人はいる!(by髭男爵)

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私が私として過ごすために一生懸命守ってきたものを、汚い言葉と厚かましい態度で次々壊さないで。

自分がどうしたいのか、するべきなのか分からなくておそるおそる、それでもここまで来たのに。

私ですらこれで正しいのか分からないけどとにかく進まなきゃ!と踏み出して来たのに。

「常識」と「経験」と「年配」ってだけで私が大事にしている感覚をパリンと割っていかれた日だった。次々と。見るも無残に。

 

下品な言葉と足らない脳でしかコミュニケーションを取れないのだとしたら、もう二度と接触しないでほしい。その人の深いところまで聞こうとするな。答えを聞いて自分の想像と違ったから気まずくなってしまうような質問は、はなからするなよバカかよ。どんな性別でも年代でも不快なく会話をするにはやはり教養が必要だと思った。

私の壊された感覚はしばらく戻らない。よく知らないジジイの暇つぶしである下品な内容と、やたらめったら振りかざす「世間一般論」がザクザクに精神を切り刻んでいったので午後は無になって過ごした。

 

猫がいるから子供ができない!

性行為をしないんだろ!

子供を産まないのは日本の為にはならない!

とまで言い始めたのでさすがにキレて「もしそういう行為をしたとしてもコンドームつけてるから子供ができないんです。猫はコンドームじゃありませんので…」と言ってしまった。

あれ以上同席していたらナイフでザクザクやってしまっただろうな。

 

たとえどんなに成功者であったり、物事の捉え方がうまかったとしても、それはあなたの感覚であって誰かに押し付けることが「暴力」であることをその人は知らない。そして私も忘れてはいけない。

 

多様性とは「いろんな考えの人たちがいてもきっと理解できる!みんなで分かり合いましょう!理解できないなんて失礼!」というものではなく「みんな違う感覚なのだから、そこはまじでほっといて。人それぞれだから…な!あなたも私も理解できない事を抱えている。みんなそれぞれ他人から理解されない感覚を持っているという認識だけ持っておこうや!」という事だという意味の文を見てそうだな〜と感じたけど、今日またその意味を噛みしめる事となった。

 

絶対に私の心は私が整えるのだ、死ぬまでずっと。誰かに潰されようとしてもしなやかに跳ね返すパワーを持たなければ。「まじお前の脳内やばくね?時代錯誤かよ」とゲラゲラ笑える昔ギャルみたいな強さがほしい。

 

あ、いかん!心が死ぬ!!

 

絶望のその先くらいまで来てて、どう思考を迂回させても行きつく先は、死ぬ方が楽じゃん…!になる。死んだことないけど。

考えてはダメだ考えては。そう言われて考えないようにしてもうまくいかない。

未来に希望は無くってただ漠然と今が消費されていくことにヒリヒリする。

 

一生懸命自分だけの世界で自分のことを考えてる時はちょっと冷静になれる。私だけのおしゃべり、行き場のない語り、誰にいうでもないさよなら。