深海で踊った日のこと

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タイコクラブから1ヶ月が経とうとしている。数える程度しか行った事がないイベントだったけど、あの音質とアーティストとオールナイトという三拍子揃ってかつ普通の週末にあるイベントってタイコクラブくらいな気がする。

Kiasmos - Looped - YouTube

絶対に見たいと思っていたkiasmosの時、私は蒸発してしまうんじゃないかってくらい細胞のひとつひとつがふつふつ沸き立つ感覚があったのを今でも覚えている。

夕方4時頃到着し、翌朝7時まで寝ずに踊りまくるという集中力と体力が普段1ミリでも発揮できればと思うほど私は陶酔していた。陶酔と言っていいのか分からないけどズンズン響くリズムと音が私の体にどれだけ影響しているのか可視化できればいいのにと思う。

朝5時前、鳴り止まないNathan FakeのDJを聴きながら私は手に持った飲み物が無くなったことに気がつき買いに走る。このとき一緒に行った友人は睡魔の限界を感じ3時前には仮眠へ。マーチンのブーツを履いた私はコンクリートの上で止まることなく踊り、外気温10℃の中かなり汗をかいていた。当時の歩数はiPhoneによると47.8キロ歩いた事になっていてフルマラソンを優に超えていたにも関わらず、私は文字通り走って飲み物を買いに行ったのだ。今考えてもどこからそんな体力が沸いてくるのかと不思議でならない。そして走りながら私は笑っていた。ふふふとかひゃははみたいに声を出して。もちろん一人で、だ。正直異様な姿だったと思う。別に酔ってはいない。こういう時は私はアルコールを飲まない。酔うときちんと音楽が体に取り込めない気がして相棒はお茶(しかも懐かしのジャワティー)だ。

この感覚をどう伝えたらいいか分からず長年ずーっと考えているのだけど、胃の裏側の部分に海溝があって懇々と熱い海水が湧き出ているような感覚というのが今は一番合っている気がする。全然疲れないし眠くもない、お腹も空かないし笑顔も耐えない。そして踊っている最中ずっと声を出して笑っている自分に気がつくのだ。ヤバイ薬キメてんのかなと我が身を疑い、同じような感覚の人はいないのか探してみると以下のような記事を2つ発見した。

 

ameblo.jp

healthpress.jp

どこまで正しいものなのか分からないけど、ああ!!!これこれ!これですよ!と叫んでしまった。

ヒトが好きな音楽に接することで得られる喜びは、セックスや禁止薬物、あるいは美味しいものを食べて満たされるのと同じく、やはり脳に快楽を与える刺激の経路(報酬系)によって誘発される――。

うまく説明ができないこういう脳内の仕組みというのは、ずっと「なんとなくそういう仕組みみたいだ」程度の知識で私は説明できないままだと思う。上のような記事を読んでそうそう!と分かってはみるけど人に話そうとすると、ただただ輪郭が掴めない、だけどとてつもなく大きなエネルギーと捉えたまま死ぬまで過ごす、きっと。

指とか足とか顔とかそういう私のカタチが全部溶けきって海の中をぐるぐる浮遊していたあの日。あの夜は間違いなく深く静かで、だけどその静けさは何もないという意味ではなくまだ音も声も持たない生命が無限に生まれる熱く静かな深海だった。シガーロスの音楽に対して感じていた「これは私の宗教だ」という気持ちがまさにこの日全ての感覚を表しているのかもしれない。

ああこれを思い出すだけでも嬉しくなる。人が海から生まれたって本当なのかもなあ。

お気持ちだけはヒップホッパー

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びっくりするくらいに時間が経っている。息を吸って吐いて目を開ければもう6月。は?なめてんのか(私が私の人生を)

メンヘラという言葉がもしかしたら自分にむけられたものなのかもしれないと感じる事があった。メンヘラ=メンタルヘルス(心の健康)に問題を抱えている人と言う意味であるなら確かにお心クリニックに行ってる時点で該当しているのだろう。だけど世間に広がる「面倒くさい人、かまってちゃん」という意味で指されているなら違和感しかない。本人が違和感でも相手に言われたらそれまでなんだけども…

私は暗い性格だけど自分の人生に関してものすごく幸せだと思っているし、友達はごくわずかしかいないけど築いてきた人間関係に対して寂しくて悲しい事などもなく、好きな異性がいても別に依存することもなく、自分の体を傷つけたりしない。ただ突然全てを終えたくなる感情がぶわっと浮かんでくるだけだ。だけだ...って話しているけどまあそれがやっかいではあるからお心クリニックラバーなわけで。私のことを後者の意味でメンヘラと言って嘲笑しているのだとしたらそれはものすごく悲しく心外だ。そして病院にかかっていなくてもメンタルヘルス(心の健康)に問題を抱えている人は山ほど存在するしむしろ今の世の中100点満点の心で一生過ごせる人なんていないだろうに。

私も人並みには他人からどう思われるかが気になるから「この人たちからは悪く言われているんだろうな」と思われるところからは距離をあけるのだけど、それでも噂はゆるゆると流れてくるものだから気にしないパワーが欲しい。

人が集まる場(そして集まって酒を飲む場)には私にとってナーバスすぎる面が絶対あって、だから自衛のためにちゃっちゃか線を引いていくことも必要なのだと。こうやって書いてみると当たり前のことなんだけど、それでも以前はこんなことすらわからなかったわけで。というか気づかないくらい辛かったんだと思う。適当な言葉に振り回されたり、ごちゃごちゃした人間関係の場に身を置くのはとても嫌だ。多分私はあんまり他人のことに興味がないのだ。でも、だからこそ余計に、他人が詮索してくることや興味のないことを知らされてしまうことにナーバスになってしまうのだ。

気合いを入れる時は心の中で唱えている 一点突破 行くぜ  HIP HOPPER 

泣いてしまうかもしれない

ちょうど1年ぶりに会う、その事実だけを抱えて過ごしたここ何日間か。

 

きっかけは同じショーに出た事だったけど、そんなことは遠い昔になった10年の付き合いでだけど私は毎回彼女に会うとき「泣いてしまうかもしれない」と思う。

家族のように大切で大好きと慕ってくれる彼女に会える嬉しさがこみ上げて泣きそうになるというのが半分。

もう半分は、果たして私は彼女の横に立って許される存在なのかと突きつけられているプレッシャーである。

背筋がシャンとする。会わない期間私は彼女に見られても恥ずかしくない生活を過ごせていたのだろうか。

自分の将来に向けて着実に進んでいる彼女がもしかしたら遠い存在になっているのではないか…という会ってはじめて実感するその感覚に恐れている。

好きな人には好きだと伝え、しっかり抱きしめて過ごしてきた私は、その不安があったとしてもやっぱり再会した瞬間駆け寄って大きく抱きしめるんだと思う。それしか出来ない。

帰りはもっと違う感情になっているのかな。長野の山奥で響く音に揺れて私は彼女との時間を楽しむ。ただそれだけで良いはずなのに。

泣いてしまうかもしれない。

愛を注ぐ事を惜しまないようにしなきゃ。

 

お天気が良くて一日中ぼーっとした日だった。友人が「職場の先輩、帰宅したら部屋で3時間はぼんやりしないと1日の充電が出来ないって言ってて◯◯(私)ちゃんと同じだ!と思ったよ」と教えてくれた。

自覚は無いけど家では本当にぼーっとしている。なにもしない。転がっている時間が絶対に必要でその先輩とやらは私と仲良くなれそうだな…と思った。

 どんどん流れていく川を見ていると決して向こう岸には渡れないんだろうなと思ってしまう。簡単に見えて遠い世界だ向こう岸。

お互いの思考はすぐ近くにいると思ってたけど大きな川を隔てていたと気がつく事があった。

何か犠牲が出るわけではないけど単純にショックだった。まさかそんな反応をされるとは…という。他人はどこまで行っても他人であるということを嫌味とかいうものではなく事実として認識しておかなきゃなあ。

 

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ものすごい愛

座る間の無いほど走り回る期間が終わった。自分が思っている以上に張り詰めていたようで普段はしないような小さなミスをいくつか起こしてしまった。

今回強く感じたのは、自分の容量を超えるストレスと向き合ったときに全く計算が出来なくなる事と、目の前の相手との会話は耳に入らないのに背後の人たちの会話ばかり耳に入ってきて混乱する、という二点だった。

計算に関しては340+890とかいう小学生レベルのものが出来なくなってしまい相当落ち込んだ。脳で数字が泳ぐような感覚があり桁とか位が意味を持たなくなっていた。まあ電卓を使えばその場は難なくしのげるのでいいんだけど。会話は元々いろんな音が耳につく体質なのにそれがグンと強くなってしまい重要なものだけ聞き分ける事が難しかった。

ここで「ストレス」というのは、単純に疲労も含めての事もあるけど「いつも通りの動きとは違うリズムになった時」私は得体の知れない不安が泡のようにふくらみ、考えるだけで押しつぶされることが多々ある。最近はそろそろリズムが取れなくなる時期が来るな、と先のスケジュールの多忙さを知った時点でその不安がまとわりつくようになった。ひとりの空間にとじこもる事で回避しているストレスがその時間ナシにどう対処するべきなのかが大きな課題になっていて、そもそも泡のような不安がもたらす支障ってどんなことだろうか・・・と観察することから始めようという話になり、なんかヘンだなと思った事をメモしておこうとカウンセリングの先生との話だったのだけど。

やってることが子供の知育遊びのようで、こんなことから潰していかなければ私の心と向き合えないのかとズーンと重くなる。

今なにが必要かって、それはものすごい愛だ。ものすごい愛、それ以外に無い。与えて欲しいわけではなく見つけるだけでもいいし私が愛を注ぐ側でもいいのかもしれない。

先日友人に送ったミックスcdはかなり喜んでくれてそれだけで私はオールオッケーよと口にしてしまったのだけど、そういう事だろう。全て度外視にしてくれるものすごい愛を。

 

私はようやく自分の身長が好きになれたのに

ものすごく不審な話だけど、たまにハッとするくらいリアルな夢を見ることがあってだいたいそれは当たっている事が多い。内容はどうでもいいことで「好きな人の昔付き合っていた女の子がロシアンブルーを飼っていた」というのはだからどうしたNO.1の夢だった(でも当たっていた)

 

今回も多分どうでもいいけど当たってるんだろうな、というような夢をうとうとしながら見た。私はきっと疲れている。離れていく人の手を必死で握ろうとするのはとても格好が悪いから大手を振って見送りたい。

 

相手の嫌なところばかり探してどんよりするのは自分が弱いからだと分かっているので、それも含めて全ておしまいにしよう。

関係ない、と思うと楽になる。もうこれをやらなくていい、考えなくていいし、私のことじゃない。「これから」がないことはとても楽だ。思い煩うことがない。
「これから」は希望だったかもしれないけど、結局呪いでもあったのかもしれない。希望にすがるから動けなくなる。固まってしまう。がんじがらめだ。

でも、「これから」が生きていく指針であることもまた確か。

 

まだ繋がっていると思うから、糸が切れてしまわないか心配になる。糸の切れた凧はふわふわ自由だ。
飛んでいってしまった凧は、きっとどうしたって追えないだろう。風に乗って飛んで行こうが、途中で落ちてしまおうが、手繰り寄せる糸はもうない。


 糸が切れてしまったら、それまで。

 

もっとこうしたかったとか、これがしたかったとか、思っても意味がない。私は意味ないことが嫌い。
だから怒ることも嫌いで苦手。怒ってもどうにもならない。怒りは私にとって無意味だ。

さようなら私の凧。さよなら、綺麗な空、気持ちのいい風、美しい光。

 

日常が目まぐるしく過ぎていく時期が今年もやってきて、踏ん張っていないと私はすぐに折れてしまう。新緑が全て咲ききって梅雨になるころ、私もまた新しく動き出せるだろう。

 

時間が解決するというのは頼りないけど本当のことだ。私は目の前にある業務を淡々とやり続ける。

仕事は好きじゃないけど時に救いとなる。

 

 

 

今日も良い一日でした

私の生活に関わる重要な人たちを好きすぎて「みんな最高!しかし私にはなにも無い・・・人生なにやってんだ」と落ち込むことが多々あるのだけれど、先日その話をしたら

「その人達の仕事はすごいと思うし尊敬しとるし、俺なんかは比較にならんと思うけど、オレ何もない、とは最近あんまり思わんくなってきた。なぜなら今日は天気いいから。天気よくて気分もいいから。」

という回答がきて、この人は本当にすげーなの一言だった。そうだったそうだった。自分が楽しむ方法を心得ようと思ったのはこの人がきっかけだったなと。

べつに今の私の状況を話したとかではないけれどそれでも5年ぶりに色んな事が話せたのは良かった。お互いが今はまっているものが偶然インド由来のもの(ヨガ、舞踊、楽器など)だったのでその話から彼が専攻していた民族と宗教の話なんかもできて

そうそう、こういう自分の頭の中をぐわんぐわんとまわる話題がずっとしたいんだよって興奮した。私は答えを聞きたいわけではなく、そこに行き着くまでの「わからないことをわかるようにする過程」が好きなんだと話しながら強く思った。

楽しすぎて「うは~好きになっちゃうじゃん」と勢いに任せて言ったら冷静に「いや、ならねーだろ」と返され笑顔で「ならない!」と答えた。

お互い本当に話したいことがずっと話せるという時間であったことがどれほど嬉しかったか。

 

自分がどうありたいとか、何が好きとか、どんな思考をめぐらせることに幸せをかんじるかとか、物じゃない好みをもう少し明確にしたいなと思った。今でもそこに対するこだわりは強い方だと思うけど「○○でいいなあ・・・」と眺めるだけはもう飽きたので眺める対象と異なる自分を愛するか、もしくはそこに近づくよう動きたい。

誰かを見てまぶしくなって目を伏せるのは全然幸せじゃない。お天気が良くてぐーんと背伸びをしてまっすぐ自分を見つめられる日をたまにでいいから作ろう。毎日をずらっと並べた時に「なかなか良かったじゃん」と自分で言えるようになりたい。

 
 

 

 

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