8月になった=今年もおしまい

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連日悪夢で何度も目が覚める。だいたい「うああ」と唸りながらだったり、グッショリ汗をかいていたり、泣きながらだったりする。

 

ダイエットを始めて3週間、少しずつ痩せてきたけど同時に胸も無くなってきた。F~Gをうろうろしていた物はすっかり溶けてなくなって、おっぱいはただの脂肪であることを自ら立証した。服をかっこよく着るには断然胸がない方がいいのだけど、あるものが無くなるというのはまあ寂しい。となると痩せてて巨乳な人はなんたる奇跡だよ!と思うけど案外周りにはそんな人が多くて「神は二物を与えまくる~!!!」と嘆いてしまう。何も失わずに何かを手に入れるのは(私にとっては)難しいという人生のオールテーマをここでも痛感。

 

この前のお休みはすごく楽しく過ごせていたのに最後の最後で気分が最悪になってしまった。ハッキリとした原因は分からなくても「なんかこの人とのやりとり食い違う…」て人との連絡は断つほうがいいなって改めて思った。いつからこんなにズレが出てきたのだろうか。そこまでして私はこの人と何がしたいのかって考えてもぼんやり曇った虚無が浮かび上がるのみ。しがみつくのはみっともないな私ってばと悲しい気分を今も引きずっている。なにもかもが中途半端な私はだれかときちんと向き合って話すことに苦手意識があるのかもしれない。ふざけるか拒否するかの二択。いいかげん神経質な感情と寛大な心を交換したいところ。

選んで欲しいわけではなく、対等であるということが一番尊い

 

大量にもらったブルーベリーはジャムにするにはあまりにも多すぎるので、リカーと氷砂糖に漬けてお酒にしてみようと思う。完成するまで4ヶ月かかるらしい。年末じゃないか。そのとき私は何をしている?にこやかに完成したブルーベリー酒で乾杯できていればいいなあ。

 

 

昨日の今日でこれだからもう

久しぶりに外出時の心が滅タイムが来てしまい、ドラッグストアでお買い物しながらポロポロ泣いてしまう事となった。(声をあげることはないし、買わなきゃいけないという意思はあるのでポロポロ泣きながら淡々と買い物をする見た目もヤヴァイ奴になっていたんだけど…)

 

私はほとんどの人がなんの疑問も抱かず越えて行く項目にひどく抵抗があるのだけど、それはもう仕方ない自分の性格だと近年になって割り切る強さが生まれた気がするのに、たまに現れる「どうして出来ないの?」を突きつけられる場面が重なると悲しくってやり切れなくなるのだ。

 

悲しいというのは理解されないという意味も数ミリあるのかもしれないけど、みんなが何とも思わず出来る事になぜ私はこんなにも頑なに拒否してしまうのだろう…という自分への情けなさから来ているのが主だ。

 

猫を撫でて音楽を聴いて膝を抱える。はやく苦しい時間が過ぎてくれ!と祈りつつ過ごす。

100パーセントなんてこの世の中に存在しないんだろうけど、100パーセント大丈夫になりたい。

 

Humbert Humbert - Tora [Official Music Video] - YouTube

 

あついなつ しゃるうぃーだんす

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友達が少なく、かつ夏はべらぼうに忙しいのだけど、それでも隙間に収まらないくらいの楽しさが予定されている夏を過ごしている。イル。

焼けたくないのに焼けてしまうし、こんがり小麦肌とかになるならまだしも首だけ黒くって「顔浮いてない?」状態になるのが毎年の決まりになってる。本当はこの夏引っ越す予定だったけどなかなか決めきれず、冬まで流れてしまうのかな~とうすうす。暑い時に引っ越すのは...とか、忙しくて内見できないし...とか理由をつけてはいるものの、ようは決心がつかないだけである。

みんなが就活をしているその時からず~っと「将来とくになりたいものはない」「自分の帰る場所がほしい」「その空間を大切にしてそのために働いて生活する」と言っていたけどこの歳になっても変わらないようだ。

ところがその「帰る場所」という正解がなかなか見つからない。誰かと過ごす心地よさと一人で閉じこもる安心は同一線上にはなくて私はどこをふらついているのだろうかと立ち止まったりしていた。

だけどこの暑さでそういうのは「一端やめー!休憩!まじで脳が死にます!ラフに!」という指令が出た。そう、だからこの夏は自分の帰る場所=我が家最高!という自分本位のままですごそうと思う。

誰かの為に心を開けるのは幸せだけど、とてもとてもパワーがいるという事も知っているので猛暑を理由にこの夏は楽しく過ごすだけに集中したい。

 

深海で踊った日のこと

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タイコクラブから1ヶ月が経とうとしている。数える程度しか行った事がないイベントだったけど、あの音質とアーティストとオールナイトという三拍子揃ってかつ普通の週末にあるイベントってタイコクラブくらいな気がする。

Kiasmos - Looped - YouTube

絶対に見たいと思っていたkiasmosの時、私は蒸発してしまうんじゃないかってくらい細胞のひとつひとつがふつふつ沸き立つ感覚があったのを今でも覚えている。

夕方4時頃到着し、翌朝7時まで寝ずに踊りまくるという集中力と体力が普段1ミリでも発揮できればと思うほど私は陶酔していた。陶酔と言っていいのか分からないけどズンズン響くリズムと音が私の体にどれだけ影響しているのか可視化できればいいのにと思う。

朝5時前、鳴り止まないNathan FakeのDJを聴きながら私は手に持った飲み物が無くなったことに気がつき買いに走る。このとき一緒に行った友人は睡魔の限界を感じ3時前には仮眠へ。マーチンのブーツを履いた私はコンクリートの上で止まることなく踊り、外気温10℃の中かなり汗をかいていた。当時の歩数はiPhoneによると47.8キロ歩いた事になっていてフルマラソンを優に超えていたにも関わらず、私は文字通り走って飲み物を買いに行ったのだ。今考えてもどこからそんな体力が沸いてくるのかと不思議でならない。そして走りながら私は笑っていた。ふふふとかひゃははみたいに声を出して。もちろん一人で、だ。正直異様な姿だったと思う。別に酔ってはいない。こういう時は私はアルコールを飲まない。酔うときちんと音楽が体に取り込めない気がして相棒はお茶(しかも懐かしのジャワティー)だ。

この感覚をどう伝えたらいいか分からず長年ずーっと考えているのだけど、胃の裏側の部分に海溝があって懇々と熱い海水が湧き出ているような感覚というのが今は一番合っている気がする。全然疲れないし眠くもない、お腹も空かないし笑顔も耐えない。そして踊っている最中ずっと声を出して笑っている自分に気がつくのだ。ヤバイ薬キメてんのかなと我が身を疑い、同じような感覚の人はいないのか探してみると以下のような記事を2つ発見した。

 

ameblo.jp

healthpress.jp

どこまで正しいものなのか分からないけど、ああ!!!これこれ!これですよ!と叫んでしまった。

ヒトが好きな音楽に接することで得られる喜びは、セックスや禁止薬物、あるいは美味しいものを食べて満たされるのと同じく、やはり脳に快楽を与える刺激の経路(報酬系)によって誘発される――。

うまく説明ができないこういう脳内の仕組みというのは、ずっと「なんとなくそういう仕組みみたいだ」程度の知識で私は説明できないままだと思う。上のような記事を読んでそうそう!と分かってはみるけど人に話そうとすると、ただただ輪郭が掴めない、だけどとてつもなく大きなエネルギーと捉えたまま死ぬまで過ごす、きっと。

指とか足とか顔とかそういう私のカタチが全部溶けきって海の中をぐるぐる浮遊していたあの日。あの夜は間違いなく深く静かで、だけどその静けさは何もないという意味ではなくまだ音も声も持たない生命が無限に生まれる熱く静かな深海だった。シガーロスの音楽に対して感じていた「これは私の宗教だ」という気持ちがまさにこの日全ての感覚を表しているのかもしれない。

ああこれを思い出すだけでも嬉しくなる。人が海から生まれたって本当なのかもなあ。

お気持ちだけはヒップホッパー

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びっくりするくらいに時間が経っている。息を吸って吐いて目を開ければもう6月。は?なめてんのか(私が私の人生を)

メンヘラという言葉がもしかしたら自分にむけられたものなのかもしれないと感じる事があった。メンヘラ=メンタルヘルス(心の健康)に問題を抱えている人と言う意味であるなら確かにお心クリニックに行ってる時点で該当しているのだろう。だけど世間に広がる「面倒くさい人、かまってちゃん」という意味で指されているなら違和感しかない。本人が違和感でも相手に言われたらそれまでなんだけども…

私は暗い性格だけど自分の人生に関してものすごく幸せだと思っているし、友達はごくわずかしかいないけど築いてきた人間関係に対して寂しくて悲しい事などもなく、好きな異性がいても別に依存することもなく、自分の体を傷つけたりしない。ただ突然全てを終えたくなる感情がぶわっと浮かんでくるだけだ。だけだ...って話しているけどまあそれがやっかいではあるからお心クリニックラバーなわけで。私のことを後者の意味でメンヘラと言って嘲笑しているのだとしたらそれはものすごく悲しく心外だ。そして病院にかかっていなくてもメンタルヘルス(心の健康)に問題を抱えている人は山ほど存在するしむしろ今の世の中100点満点の心で一生過ごせる人なんていないだろうに。

私も人並みには他人からどう思われるかが気になるから「この人たちからは悪く言われているんだろうな」と思われるところからは距離をあけるのだけど、それでも噂はゆるゆると流れてくるものだから気にしないパワーが欲しい。

人が集まる場(そして集まって酒を飲む場)には私にとってナーバスすぎる面が絶対あって、だから自衛のためにちゃっちゃか線を引いていくことも必要なのだと。こうやって書いてみると当たり前のことなんだけど、それでも以前はこんなことすらわからなかったわけで。というか気づかないくらい辛かったんだと思う。適当な言葉に振り回されたり、ごちゃごちゃした人間関係の場に身を置くのはとても嫌だ。多分私はあんまり他人のことに興味がないのだ。でも、だからこそ余計に、他人が詮索してくることや興味のないことを知らされてしまうことにナーバスになってしまうのだ。

気合いを入れる時は心の中で唱えている 一点突破 行くぜ  HIP HOPPER 

泣いてしまうかもしれない

ちょうど1年ぶりに会う、その事実だけを抱えて過ごしたここ何日間か。

 

きっかけは同じショーに出た事だったけど、そんなことは遠い昔になった10年の付き合いでだけど私は毎回彼女に会うとき「泣いてしまうかもしれない」と思う。

家族のように大切で大好きと慕ってくれる彼女に会える嬉しさがこみ上げて泣きそうになるというのが半分。

もう半分は、果たして私は彼女の横に立って許される存在なのかと突きつけられているプレッシャーである。

背筋がシャンとする。会わない期間私は彼女に見られても恥ずかしくない生活を過ごせていたのだろうか。

自分の将来に向けて着実に進んでいる彼女がもしかしたら遠い存在になっているのではないか…という会ってはじめて実感するその感覚に恐れている。

好きな人には好きだと伝え、しっかり抱きしめて過ごしてきた私は、その不安があったとしてもやっぱり再会した瞬間駆け寄って大きく抱きしめるんだと思う。それしか出来ない。

帰りはもっと違う感情になっているのかな。長野の山奥で響く音に揺れて私は彼女との時間を楽しむ。ただそれだけで良いはずなのに。

泣いてしまうかもしれない。

愛を注ぐ事を惜しまないようにしなきゃ。

 

お天気が良くて一日中ぼーっとした日だった。友人が「職場の先輩、帰宅したら部屋で3時間はぼんやりしないと1日の充電が出来ないって言ってて◯◯(私)ちゃんと同じだ!と思ったよ」と教えてくれた。

自覚は無いけど家では本当にぼーっとしている。なにもしない。転がっている時間が絶対に必要でその先輩とやらは私と仲良くなれそうだな…と思った。

 どんどん流れていく川を見ていると決して向こう岸には渡れないんだろうなと思ってしまう。簡単に見えて遠い世界だ向こう岸。

お互いの思考はすぐ近くにいると思ってたけど大きな川を隔てていたと気がつく事があった。

何か犠牲が出るわけではないけど単純にショックだった。まさかそんな反応をされるとは…という。他人はどこまで行っても他人であるということを嫌味とかいうものではなく事実として認識しておかなきゃなあ。

 

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