居ない時間が居た時間をいつか超えてしまう

3月の後半、そろそろ暖かくなって来たかなあという日に部屋の大掃除をしてついにポストカードを飾った。

彼女と彼女が大切にしたものや、大好きなキャラクターであふれているポストカード。ずっとずっと飾らずにいた。

私の部屋に佇む彼女はいつも笑顔だ。しっかり飾ることができて嬉しい反面、それだけの月日が流れたのかな…って悲しくもある。

 

院の論文研究題材にキックボクシングを選んだ彼女、いつか研究内容を聞こうと思ってたけどそれは叶わぬままで、そんな中「キックボクシング、向いてると思う。特に対戦ではなく黙々と一人でやり上げるところが。」とヨガインストラクターに言われ、咄嗟のことで「あはは〜死ぬまでに一度は蹴ってみたいですね、その…何かを」など馬鹿みたいな発言しか出来なかった本日。

 

肌がメキメキ綺麗になったと言われたり、お化粧がうまくなったり、体つくりができるようになったり。年々自分の造りが好きになっている。体つくりに現れるという成果が出やすい努力は精神的にとても良い。

若さは一瞬であり、とても尊いものだけどそれが最高と持ち上げる気はサラサラない。若さを最高と叫べるのは若さの真っ只中にいる人の特権だ。特別視する必要も無ければ、馬鹿にするような事ももちろんしてはいけない。

はやく自分の体と心が繋がる年齢になりたい、それが加齢する事で叶うとは限らないけれど…と彼女と話していた事を思い出す。同じクラスも部活も、卒業式の寄せ書きや休日ごとのプリクラも、女子大生もサークルも、そういうやつがぜーんぶ嫌だった。

若く見えるねって言えば喜ぶと思われていることに嫌気がする。女の子は笑ってるのが1番だよ、なんて言われることも。数年前彼女とやりとりしたこの会話は今でもずーっと抱えている。それだけ今でもずーっと周りに溢れているってこと。

なにかを変えたくて生きているわけではないけど、あまりに不快が消えない生活が続くということは、動かなければいけないって話なのかもね。

少なくともこの話が出来る彼女はもういない。年1程度で良いから夢に出て欲しい。これについて二人でずーっと話したい。季節の変わり目はいつもそわそわして焦りが襲ってきては不安になる。彼女ならどうしただろうとその度に考える。

 

 

 

 

 

春は瞬いているか

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去年から春の紫外線に浴びると蕁麻疹が出てしまうという症状に悩まされているのだけれどそんな事知ったこっちゃないと外はキラキラ輝いている。

土日の公園は人、人、人でごった返し、花見とは・・・という疑問を浮かべる間も無く人に酔ってしまう。田舎でこれなのだから都会の花見は増してコレジャナイ感を抱いてしまった。花見の定義はひとそれぞれであるのは承知しているので、ただ私と違ったんだなというそれまで。

 

年々人付き合いがうまくいかなくなり、立ち止まる事が増えた。それでも今の私はよい人にばかり囲まれて、数年前より、去年より、今が一番良いと思っている。

傷つけられた!と思った相手に対して、なんでなんで・・・ばかり考えてしまうことを止めた。実は本人はなんとも思っていないのかもしれない。それどころか当たり前のようにその人を必要とする人が存在して、大切に想っているという私の見えないところで確立されてるあたたかい世界というものを誰しも持っているのだろう、そう考えたらたとえ嫌な相手でも「合わなかっただけ」と思えるような気がしている。評価するとかしないとかではなく、ただ私と合わなかった。そこをあえて掘り返す必要はなくその人それぞれの大切な世界で過ごせる事を願うだけ。だってこれは義務ではないから。原因や解決策を見つけ出すのがしんどい時はそのままにしてもいいんだ、と。私のキャパを超えてしまった関係性は無理に抱えることなく放つ。

あなたが今、まわりに大切な人ばかり居る、良い人ばかりだ!と思えるのは自分を大切に出来ているからですよ。と言われた。誰かに対して軽んじた態度の人は自分自身も大切に出来ていないのですよ、と。グサリと刺さる言葉だった。

はやく春をすっ飛ばして6月にならないかな。やるぞと覚悟を決めていても未来のためだけに頑張るなんて到底無理で、私が生きているのは今なのだから今の生活を疎かにしてしまっては何の意味もない。過去の私もひっくるめてぜんぶぜんぶだいじょうぶにしたい。するぞ!

 

 

 

愛とか考えるほど

自分のも含め人間のセックスを見ることが元々苦手だったけど、あの一件があってからセックスすること自体気持ちが悪くなってしまった。こわいし気持ちが悪い。そこに愛しかなかったとしても気持ち悪さが勝つ。私は処理の対象なのかなとか誰かにこのこと話すのかなとかまた動画撮られる事があるかもしれない、という不安が爆発してしまう。そういう事をしなくても関係性が壊れない状態がいい。

おゆみさんがちょうど今「セックス誘われる=女として魅力があるから羨ましい、というキツイ解釈を女にされた時は喧嘩売ってんのかなと死ぬほど思った。本当にそうなら誘わないで信頼関係築くことを優先するよね。どうでもいいから処理器として見られるし人間だと思われてないんです。むしろ誘われないことを誇りに思ってほしい。」ってつぶやいてて刺さりすぎて倒れた。

終わらない愛(絶対的な愛)みたいなのが成立する関係がとてもとても好きで、だから私は恋愛ではない関係性での愛に絶対的な安心感と自信を持っている気がする。 家族や家族同様の友人に対する愛は底知らずに湧き出てくる(これはもちろん私が生まれ育った環境で常にたくさんの愛を与えてもらっていたから自然とそういう感覚になっていると言える)

「◯◯じゃなくなったらその関係性は終わりを迎えてしまうかも知れない」という形に楽しみは見出せても憧れや安心は全く得られず、その代表と言えるのが恋愛であると思っていて、せっかく仲良くなれた人でも恋愛感情を持ち出されたら、ああこの関係も終わりなのかと寂しくなる。終わりというか変化させていかなければならないというプレッシャーをひしひしと感じてしまう。関係性を変化させることが人生でのステップアップになりがちだけど私にはそれは違和感でしか無く、時が止まったかのようなどこかに取り残されたかのような、しかしそこには穏やかさと絶対的な信頼がある、という状態が私にとってのすばらしい世界である気がして。

随分昔に「愛と平和のかたまりである(私)ちゃんにはそういう意味で家族や家庭というのがしっくりくる」と言われたこと、今になってなんとなく納得している。法律的な家庭とかいうものには今も違和感を拭えなけど、日々感じられる穏やかな愛といものが一般的に家族を指すのだとした私にそれはぴったりなのだと思う。

友人達のことを誰かに話すときに友達という関係性では収まらず、家族というか恋人というかその全部みたいな伝え方をしてしまうのもその通りだなって笑ってしまった。

性別関係なく大好きで穏やかな人たちが同じアパートの別の部屋で過ごす生活を家族と呼べるのならそれが一番いいな。愛はかたちが無くて目に見えない。私はいまどれだけの愛を注がれてまたは注いでいるのか可視化できないけれどこうやってウダウダ言いつつ「うわ~愛されているな」とニヤニヤしちゃう無敵な状態は多々有るのでその分私も注いでいきたいな、愛を大切な人たち全方位に。受け取る側の喜びだけに頼らずに与える側の喜びを見出せたらいいなぁ。

完全無欠の愛、それは死ぬまで大切な人たちを大切にするかたち(完全なんて信じないけれど私が死んだ時点でそれは完成するとは強く思っている。)

その「かたち」ってもの、いつか自分の言葉で表現できるといいな。

薄いカーディガンをぺろっと引っ掛けて

いつだったか誰かの文章で服(主にカーディガン)を羽織ることを「ぺろっと引っ掛けて」と表現してあるものを見た。なんて可愛いんだと見つけてすごく嬉しくなった。サッと羽織る、ではなくぺろっと。

私はカーディガンを着ない。制服として着たこともあるけど私服では1枚も持っていない。あれを着るとなんだか居心地が悪い。厚手のカーディガンを着るなら迷わずセーターを選ぶし、薄手のカーディガンは1枚下に着ている服にぴったり吸い付くような感覚が苦手だ。

私も誰かの文章のように気軽にぺろっと引っ掛けたかった。日常として着る、そこに違和感を覚えたくなかった。

 

4月はもっともっと先にある感覚だったのにいつのまにかそこにある。春は苦手だ。毎年毎年同じような事を言っている気がする。何かを終えて、何かが始まる。みんな目標を持ち新たに決意し、そして一歩進む。そうじゃない私は1人横になっている感覚が抜けなくて眩しくて眩しくて心の置き所が見つからない春が苦手だ。

 

感情が感情を呼んで雪だるまみたいに大きくなっていく事が多々あり、ぐっと踏みとどまる為に漠然とした自信とパワーが必要で「私は大丈夫」と唱えて耐えるのだけれど、自分自身を鼓舞するのは毎回うまくいくわけではない。

そんな中バカみたいな遊び(ネットに落ちてる性格判断みたいなやつ)の結果が心底ハッピーで、そういった根拠のない私への褒め、みたいなのがすごく救いになったりすると気がつき、占いに助けられる人の感覚がなんとなくわかった気がした(嫌なこと言ってくる占いは即無視ね)

 

大人になればなるほど「難しい事を考えて、難しい言葉を使わなきゃいけない」て思ってしまうけど、本当はシンプルに分かりやすいものたちだけで組み立てられる事が1番良いのにな。

 

もっと気軽にぺろっと引っ掛けて、前に向かってひょいと一歩進みたい。

大丈夫って言われたら大丈夫な気がする

f:id:sooooogoooood:20190316224602j:image赤の他人に自分のセックスの映像を見られたこと(許可なく知らない間に)ずっとずっと考えて、ここ最近のブログもその事ばかりだった。

色んな感情が入り混じって解決もしないし絶望ばかりで心が死んでいたけど大阪の週末、会いたい人に会い、過ごしたいように過ごしケラケラ笑って満たされた。

 

去年の今頃、こんな風になるって思った?

まさか!全く。

来年何してるだろうね。

分からない。分からないけど今よりもっと楽しいよ。

そんな会話をしながら心で復唱した「今よりもっと楽しいよ」

明日からまたいつもの日常。いつもを積み重ねてもっと楽しい来年の今を作るのだ。

 

 

■■

昼間はカウンセリングで一部始終を話し、許すとか許さないとかじゃなく、私の全てを消してくれという気分です…と伝えていたらぐちゃぐちゃに泣いていた。惨めだ。だけど生きなくちゃ。

愛する人たちがいるから、サッサと忘れて楽しいことをして生きるんだ。そうだったそうだった、つい先日も友人と「楽しいことばかりして人生を終えたい」って話をしたんだった。

対応はいくらかあるけれど、向き合うのにもパワーが必要だから今はその物事が心の中で見えないように布を被せても良いと思いますよ、と言われてそうすることにした。向き合いたくない。しんどい。私の心は生きているのだ、疲弊して本来楽しいことが楽しめなくなるのなら解決しなくても今は無視に徹しよう。

10年来の友人が私のことを「家族同様の恋人です」と紹介していると知り、単純思考の私は、もうそれだけでわたしゃ満足じゃ…と思った。数年かけて私は私のカタチを確認する作業をしているのに、とんだ爆弾投げられて大きな穴が空いてしまった。それって本当に馬鹿みたいだし情けなさがこみ上げてくるけど、過去の話にいつまでも引きずられてはいけない。それひとつに固執してしまってはどんどん過ぎていく私の人生がそれこそムダになってしまう。限りある時間を愛すべき人と感覚に使いたい。

今日これだけ前向きでも明日にはヘイト100かもしれない。それでもいい。残念だったね私は先に進む、過去よさようなら。

無理100000%が脳内でひしめき合ってる。昨日はあれから私の本体の価値ってなんなんだろう、あんな扱いを受けるなんて人形か何かと思ってんのかなという自尊心がズタボロになった状態で死にてえが大爆発したけど今朝は死んでたまるかが追い上げてきた。

本当に悔しいし悲しい。こんな扱いを受けるために生きているわけじゃないのに!どうにか戦いたいって思いと、怖い気持ち悪い、今すぐ忘れたいがぶつかりまくってる。

書けば落ち着くんだけど文字を打つ指が震えて笑ってしまう。どう行動するかは本人の自由であると前も言ったけど、本当にそうで大抵のことは「そういう性格」で片付くし、不倫や浮気なんかの道徳的な話も本人同士の事じゃんと特に何も思っていない。他人の行動は私の範疇では無い。

だけどそこに私の意思なく私が投下されるとなると話は別で、血の気がすーっと引き自分が自分じゃない感覚に陥っている。過去のトラウマまでも引き出しから溢れてしまってコントロールが効かない。私がその現実を知って今死を選ぶしかないという状況にまで追い込まれていることをあなたは知らないだろう。

自由だから何でもしていいってわけないじゃん。私のズタボロになった心は一生修復できないのに。まわりにも同じような経験をした人がいると知りおそろしい世界が身近にあると感じた。悪気は無い、悪気は無いけど意識もない。無知が一番の罪だ。私も知らないうちにたくさんの人を傷つけていると思う。私がよかれと思ったことがダメだったり、大した事無いと思ってたことが相手にとっては大打撃だったり。人付き合いに正解は無いと思っているけど今回の話は全く整理が出来なくて、心の奥で大暴れをしている。

どう折り合いを付けるのが正解なのか。しばらくは反芻のように何度も胃から気持ちが悪い感情が溢れ、どうにか咀嚼して飲み込むしかなく、それを繰り返して行けば心の持っていきどころが見つかる気がしている。耐えろ、とにかく耐えよう。目の前の欲望のためだけに踏みにじられたこと、きれいに葬ることができるまで私はずっと苦しむんだろう。