somewhere called phantasien

一昨年のこと、見たことも会った事もない親戚を訪ねて1人で四国へ出向いた。母親の出生地を調べその街へ行き、数年前まで年賀状でのみやり取りをしていたという親戚の住所もメモに書き留めて、瀬戸内海を渡り自転車をぶっ飛ばした。

なんでそんな事をしたのか、人に聞かれてもうまく説明できないのだけど、物理的なとこの「私はどこから来たのか…」ってやつが知りたいなと思ったから。アイデンティティなんて大それた言い方は違う気がするけど、おじいちゃん、ひいおじいちゃんそのまたおじいちゃんがどこからやって来たのかを正確に知ってる人ってなかなか居ないんじゃないかな。私なんて20を過ぎるまで自分がオランダの血を引いているなんて知らなかった(1/8なんてゼロに等しいが)

 

どこから来たかが分かったところで自分がどこへ行くのか決まるわけもないけれど。

 

田舎の若者がこぞって都会を目指す。

東京はいつだってカッコイイ存在であって欲しいな、と都会にためらって踏み出せなかった私は思う。

いつだったか新宿生まれ新宿育ちの友人に「みんなみんな東京を目指してやってくるのが常だけど、元々都会育ちは将来的にどこへ行きたがるの?」と聞いたら「どこも目指しませんよ。何か希望を土地に託すのは違う気がするんです。」と返答された。

そんな彼女は早々にアッチに行ってしまって、目指してたのはそっちかよ…と将来私が死んだら怒りに行こうと思っている。

 

どこから来てどこへ行くのか。何から生まれて何を以て過ごすのか。

 

親しくしてくれる何人からか「きみは戸惑うほどまっすぐな事があるよ」と言われた。それでしか過ごせなかった私はその言葉が持つ意味をうまく消化出来ずにいる。視力が良すぎると遠くの壁の汚れまで見えちゃって苦しくなることがある、きっとそんな感じと新宿ガールは言ってたっけな。

自分がいる場所が把握出来なくて胃が浮く不快感を覚える事が多々ある。

 

数年前目指した、見たことも会ったことも無い親戚は不審がることもなく私を受け入れてくれたその一番の理由に「おじいちゃんにそっくりやわ、顔から形から話し方まで」と言った。

それがとてもとても嬉しかった。母が高校の時に亡くなってしまったおじいちゃんには当然会うことは無かったのだけど、話で聞く彼は触れたことが無くとも私の大好きなおじいちゃんであったから。

 

親戚のその一言で少し楽になった。

ああ、このワケの分からない浮いた不快感を抱えたままでも良いのか。そう自分自身で安心できたからかもしれない。

もしかしたらみんなこの気持を抱えているのかも知れない。私が聞いて来なかっただけで。

 

目指す場所還る場所その実態が分からないままみんな過ごしているのだと思うと、きっとそこは良いところに違いないと思ってしまう。

それぞれにぴったり沿った場所へ、きちんと向かうのであろう。私が強く芯にすべきなのは優しさよりも誠実であろう、いつだって。

 

さあ4月。新しい年だ。力みすぎず季節と心の変化に敏感に、物事を柔らかく扱える春にしたい。