雨とカエルとアジサイと共に

梅雨がやってきましたね。

よく降るねえ。

 

そんな会話をよくするようになった。梅雨入りしてまだ数日なのに。

田舎の話題は天気や田畑の事が多く、季節と密接しているなあと思う。世間では梅雨を嫌がる人がが多いけど、このあたりではようやく雨だ、恵みの雨だと昔ばなしのような雨に対する感謝の念が厚い。誰かのツイートにもあったけど、そうか梅雨とは本来美味しいお米やお野菜の為にはとても大切な時期であった、と生活に染み付く梅雨=ダメみたいな感覚を払拭したのだった。

誕生日が梅雨時期なのでいつも私の誕生日付近はみんな嫌なんだな、と幼いころに時期を恨んだりもした。6月生まれは賢い子が多いのよ、と言われて育ったので頑なにその肯定意見を握りしめて生きてきたのだけど、どうやらその説も人によりけりらしいと納得するしかない状況。

私もお米やお野菜のように雨たくさん吸収してどうにかならんもんか。

 

先日会った友人とは数えるともう10年になる付き合いで「ありがたや~。これからもどうぞよろしく~」と互いに深々と礼をした。街のど真ん中で。

定期で人生どうでも飯田橋とつぶやきつつ過ごすくらいに何も手に残らない生活をしており、我ながらどうなんだよおいとは思って唖然とする日もあるけれど気がつけば10年、誰かの記憶に留まっているのは大変うれしい。

カウンセリングの先生は私の事を「外界からの刺激を深く感じ取り、心に受け止める能力が高すぎる」となんとも高貴な感じで言ってはくれたものの、要は感受の門が開けっ放しなのでなにもかもお構いなしにドバドバ入って来ては一喜一憂して疲れてるんだから、しっかり門番備えろや!!という実態に立ちすくんでは見てみぬふりをしている。

 

面と中身は伴わないものよのう…とただ生きてきた道を振り返りつつ10年来の彼女たちは皆私のことを「精霊ぽい」だの「癒やしの生き物」だの言ってくれては大切に付き合ってくれているその位置に甘えている。ありがたく人間を離れてみるかと思った矢先、われら青春のSWIMMER終了のお知らせ。ファンシーの代表だったブランドが幕を下ろすだなんて…眩しさの、キラメキの、与えられた夢の終了だ。ガーン!

そうか時間と時代は確実に流れているのだ。突きつけられる現実に死んでも人間辞められんわと脱人間説からの脱。

梅雨が梅雨で良かったと気がつけたのだから、門番なしの心で良かったといつか思えるようになるだろうとまた10年進む気がする。

門番構えて無である心で10年過ごしたところで私の生活満たされた!とはならないのはなんとなく分かっている。お腹いっぱいになったとしてもクソつまらん時間だとは思いたくない。

 

人生に区切りを付けるのは苦手ではあるけれど、まあ歳を取るときぐらい気合を入れても良いでしょうと私のなかの穏やかな私が許可を出す。抱えきれない自分の「出来ない」を目の前に、乗り出せるのか私。死を選ぶこと無く進んだ自分を無(ム)では無いよと思えるように。

OK余裕 未来は俺等の手の中