Sigur Rós er Trúarbrögð

私の周りには生活に宗教がある人達が多く、それがどうとかいうわけでは無いけど宗教がある生活とは何なのか。何故私はその生活じゃないのか、というのをふと考えることがあった。

 

新興宗教やカルト的なものに突発的にハマらない限り、宗教とは親から受ける教養の一部なのかもしれないねえ、なんて話をしたことがある。朝起きたら顔を洗う、ご飯の前にはいただきます、な流れでごく自然に受け継がれるその家独自の「生活」というものに組み込まれた宗教。

 

「そう考えると(私)ちゃんにとっての宗教は山なのかもしれないね」とその会話の時に言われたことをすごく覚えている、そしてそれを言われてとても嬉しかったという事も。

父も母も人の姿をした神に対する信仰心はあまり無く、どちらかと言えばその石にも、その川にも、昨日食べた野菜にも神がいるという八百万神信仰だ。それは私達の生活にぴったり沿うものであったしその流れになったのも必然というか、これこそ教養と生活から生まれ親から引き継ぐ宗教という説明がしっくり来る。

 

先日シガーロスのライブに行った。2013年の来日以来4年ぶり。私はルールとして許されようがなんだろうがライブをケータイで撮影するその画面の光がチラチラなることを親の敵のごとく嫌うので、なるべく前に行きたいと今回は頑張った。

ギチギチに詰まった会場前方で隣は2秒も黙っていられないインスタ映え命な男女グループ、後ろには息が臭すぎるのにわざとかと思うくらいため息ばかりつくサラリーマン。はやくライブ始まってくれの一心で私は耐えまくっていた。

余談だけどインスタ映えグループは、間に1人で来ているであろう全然関係ない人を挟んで尚もお互いにひたすら喋り、その関係ない人にバカスカぶつかりまくり、大声で笑ったりしていたので「はやく滅びますように」と睨んでおいた。同時に一人で来ていたであろうその関係ない人になにかとびきり良いことがありますようにとも祈った。

 

4年ぶりのシガーロス。感動とかそういうざっくりとしたものでは言えないかといってうまく言葉にできない感情だった。

宗教、そう宗教だ。音に対して祈りを捧げるなんてことはおかしいのかもしれないけれど、宇宙が生まれて死んでまた生まれ変わる壮大なサイクルを二時間で体感した気がした。みんなの中にある細胞を満たす環境があるとしたら、それと同じ空気と大地をあの場所にいた人全てが吸い込んでグングン満たしたのではないかなあ。

 

自分たちの意志ではどうしようもできない自然の壮大さと同じ狂気と美しさを持つ彼らのライブを前にして私はただただ祈るしかなかった。佇んで全身で生を感じていたと思う。毛穴のすべてから呼吸して、静かに全身がビリビリ震えて開いていく感覚があった。

今すぐ死ぬ気は無いけれど、漠然と生きてて良かったと思った。空気と山と川と空と海とそういった自分のはるか手の届かない、でもいつも身近にある存在の音楽。生きるを許す音楽。

 

祈りを捧げるという感情

許される世界


 

うまく説明できないけれど、四年越しに私はまたビッグバンを体験した。直接的なものでは無いにしろ私にとって彼らの音楽が宗教であるのだと思う。ずっとずうっと聞いて生きようこれからも。

 

あと息がテロだったサラリーマンは内臓疾患が心配なので早めに病院に行ってほしいし、密集地に行くときは私もガム1億回噛むことにする。(騒がしい男女のグループには与える優しさの余地なし)