意味なんてない

働かずに生きていけるのなら一生働きたくないよなー誰だって。生活の為だけではないかもしれない、働く理由ってのは。
人それぞれあるのかもしれないけどそれでもふと労働中に…アッッッ!このままでは…自分が…死ぬっ!!!
みたいに感じる事がある。
自分の意思とは異なる所まで精神が追い詰められた時、心が死ぬ。
きっとみんなあるんだと思う。

 

先日フラッと訪れた期間限定のイルミネーションスポットにはライトアップされた珍しい植物たちが並び、観光客がわんさか溢れていた。
来る日をミスったな…そう思いつつベンチに座ると向かいにも私と同じような苦い顔したサラリーマンが1人。
仕事中なのか仕事終わりなのか、クタッとしたスーツのポケットからケータイを取り出し、とりあえず写真を撮るもなんだかその目はどこか遠くを見ていて、ああ…分かるよMy bro!と肩を組みたくなるのだった。

 

イルミネーションは綺麗だった。人が少ない時にまた行きたい。わけも分からず見る順を逆走していたのは私ただ1人だったけど。

 

お金を貰って労働するという環境下に置かれてからの私は常に複数の仕事を掛け持ちしている。そりゃあお金はたくさんあった方がいい。やりたい事にも幅が効く。
でも大きな理由はそこではなくて、いくつか過ぎ去って行った私の過ごした職場では辞める際に「お前はこの先何をやってもダメ」と書かれた手紙を渡されたり「頭がおかしいので精神科に行け」と留守電が入る事があった。
別の職場だけど、ずっと忘れない。頭にずっとずっと残っている。

 

私は無能である。

 

その一言を払拭するためにたくさん働く。いろいろな事をやる。無能じゃない。無能なんかじゃない…。
いつまでたってもそこから抜け出せない。

私は無能だ。

なにをやってもうまくいかない。
それがリアル。


能力がなくても生きていていいのに。
納得がいかないのは自分自身であって、そこを認める事が出来ない。頭がおかしいなんて昔から分かっているのにな〜〜。

ぐるぐる回る重たい波の中をかろうじて溺れずに生きている。

 

あのサラリーマンも俺は無能だ沼から抜け出せないないのかもしれない。彼の心にもどうでもいいやとヌルい風を吹かせてほしい。

 

明日はどっちだ、知るか、関係なく明日は来る!健康で生き抜いて笑って死ねば無能でも良かったと肯定できるはずだから、私はまだ死ねないのだ。そこを選ぶのは最後の最後だ。悔いなく三途の川をスキップして渡ってやるつもりナムアミ!

 

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生活はずっと続いていきます、ずっと

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毎月毎月やってくる生理めんどくさい。そう思っている人は私だけじゃないはずだけどいつだったか何かの文で「毎月1回が年12回。つまり妊娠できるのは年に12回だけ」みたいな文字の羅列を見てギョッとしたことがある。明確なところで言うと決して年12回なんかではないはずだけど。

途端にぬるっと生々しい生き物感が出てくるなあ。タイムリミットに追われている気がしてとても怖い表現。2歳だろうが80歳だろうが私は私であるはずなのになんだか時価で販売されているような感覚になる。きっとどこかでそんな風をやんわり感じている、みんな。

いつかそうなるだろう、とぼんやり描いていたものは目の前には無く、まさかそんなことにはならないだろう、と思っていたものが今の私には十分に存在している。染み込んでいる。

お土産にもらったおいしい紅茶、huluにアップされていた映画、図書館で貸出可能と知った気になっていた図鑑、河原でたき火、時間があるときにゆっくり出来るときに取っておこうと思っている楽しみは数ヶ月経ってもそのままの事が多い。

時間が出来たら睡眠を優先してしまう癖が昔から抜けないのは全てを遮断できる方法だと知っているからだ。寝る子は育つでここまで大きくなり、寝る大人はどうなる?を実践中。

 

季節外れの蚊にさされていくつも腫れてしまった腕は、タイムリミットに追われる同じ身としてまあ許してやろうと上から目線でいる。単に私が鈍くさいだけ。

 

9月が終わる。毎月同じ事を思う。もう終わるのか、と。だけど何にもしない。

ごろごろしながらラジオを聞いてケタケタ笑いながら猫をなでる。私の時価があろうがなかろうが生きて死ぬ。

 

 

I'm so lucky to have you in my life.

夏らしい夏を送ることなく無理矢理詰め込んだ「海」の予定は墓地をくぐり、獣道を這い、抜けたところに現れる誰も居ない場所だった。

泳ぐことはおろか革のサンダルで来てしまったので足も漬けることなく寂しく波打つ音と潮の匂いを感じながら「ああ、今ここで拉致られても誰にも助けてもらえないな…死」と思ったのだった。海なんて一人で行くもんじゃねえ。

盛り上がりとはかけ離れた休日をそうして送ったけど心は穏やかで、こんな日がずっと続けばいいのになあと思った。

たっぷりとした睡眠と穏やかな気候、しっかり食べるごはん。それだけ揃えばなんとなく良いと思ってしまえるのだから誰もが描く「おだやかな日々」なんてすぐそこにあるのかもしれない。だけどその三点が揃うことってなかなか無いんだもんなあ。

欠けてしまったおだやかさを別の何かで補填して「おだやかな日々」に近づこうとしているのだろうけど、どこか違うちぐはぐなものに仕上がってしまって苦笑い。

I'm so lucky to have you in my life.

ちぐはぐな私にそう言ってくれる存在もいるから、自分の判断で自分を蔑むのはやめようと思ったりまた目が覚めたら忘れていたり。

 

冷蔵庫の中に1年放置してあったチューハイをようやく飲んだら忘れられていた味がした。夏の終わり。目の前のものを見ないふりして過ごすことは後々心をえぐり取られるヘビー級パンチになったりするもんだ。

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Sigur Rós er Trúarbrögð

私の周りには生活に宗教がある人達が多く、それがどうとかいうわけでは無いけど宗教がある生活とは何なのか。何故私はその生活じゃないのか、というのをふと考えることがあった。

 

新興宗教やカルト的なものに突発的にハマらない限り、宗教とは親から受ける教養の一部なのかもしれないねえ、なんて話をしたことがある。朝起きたら顔を洗う、ご飯の前にはいただきます、な流れでごく自然に受け継がれるその家独自の「生活」というものに組み込まれた宗教。

 

「そう考えると(私)ちゃんにとっての宗教は山なのかもしれないね」とその会話の時に言われたことをすごく覚えている、そしてそれを言われてとても嬉しかったという事も。

父も母も人の姿をした神に対する信仰心はあまり無く、どちらかと言えばその石にも、その川にも、昨日食べた野菜にも神がいるという八百万神信仰だ。それは私達の生活にぴったり沿うものであったしその流れになったのも必然というか、これこそ教養と生活から生まれ親から引き継ぐ宗教という説明がしっくり来る。

 

先日シガーロスのライブに行った。2013年の来日以来4年ぶり。私はルールとして許されようがなんだろうがライブをケータイで撮影するその画面の光がチラチラなることを親の敵のごとく嫌うので、なるべく前に行きたいと今回は頑張った。

ギチギチに詰まった会場前方で隣は2秒も黙っていられないインスタ映え命な男女グループ、後ろには息が臭すぎるのにわざとかと思うくらいため息ばかりつくサラリーマン。はやくライブ始まってくれの一心で私は耐えまくっていた。

余談だけどインスタ映えグループは、間に1人で来ているであろう全然関係ない人を挟んで尚もお互いにひたすら喋り、その関係ない人にバカスカぶつかりまくり、大声で笑ったりしていたので「はやく滅びますように」と睨んでおいた。同時に一人で来ていたであろうその関係ない人になにかとびきり良いことがありますようにとも祈った。

 

4年ぶりのシガーロス。感動とかそういうざっくりとしたものでは言えないかといってうまく言葉にできない感情だった。

宗教、そう宗教だ。音に対して祈りを捧げるなんてことはおかしいのかもしれないけれど、宇宙が生まれて死んでまた生まれ変わる壮大なサイクルを二時間で体感した気がした。みんなの中にある細胞を満たす環境があるとしたら、それと同じ空気と大地をあの場所にいた人全てが吸い込んでグングン満たしたのではないかなあ。

 

自分たちの意志ではどうしようもできない自然の壮大さと同じ狂気と美しさを持つ彼らのライブを前にして私はただただ祈るしかなかった。佇んで全身で生を感じていたと思う。毛穴のすべてから呼吸して、静かに全身がビリビリ震えて開いていく感覚があった。

今すぐ死ぬ気は無いけれど、漠然と生きてて良かったと思った。空気と山と川と空と海とそういった自分のはるか手の届かない、でもいつも身近にある存在の音楽。生きるを許す音楽。

 

祈りを捧げるという感情

許される世界


 

うまく説明できないけれど、四年越しに私はまたビッグバンを体験した。直接的なものでは無いにしろ私にとって彼らの音楽が宗教であるのだと思う。ずっとずうっと聞いて生きようこれからも。

 

あと息がテロだったサラリーマンは内臓疾患が心配なので早めに病院に行ってほしいし、密集地に行くときは私もガム1億回噛むことにする。(騒がしい男女のグループには与える優しさの余地なし)

 

誰でもないところからの眺め

『誰も見たことがない魚は誰も見たことがない魚だとは知らない誰かにもう見られているかもしれないだろう』

 

 

きっと瞬きをすればそこは年末。

おどろく速さで夏を駆け抜けている。かつて私を苦しめていた宿題たちは存在せず代わりに長い休みは消えてしまった。あれあれいつの間にそんなトレードしたんだっけ。

 

知らない世界にいつの間にか住んでいる。いつだってそんな気分だ。同じ人間の殻をかぶって生きているのに5年前の私は今の私がこうなるなんて微塵も予想出来なかっただろう。計画性が無い、良く言えば行動力がある(思いついたらまずやってしまう)その性格は私を雑にしている、しかし遠くまで飛べる力になる。

 

私はあなたじゃない、あなたは他の誰かでも無い。知らないところに住んでいる沢山の誰かは私とは違う。

みんな自分の場所で生きている。その場所が変動しようがその人の場所には変わりがない。その生に貴賎はないけれど、でもどうしてもそこに違いは生まれてしまう。その違いを私たちはどう受け止めたらいいのだろう。

 

誰にも思いを重ねずに対話が出来れば糸が絡まる事は無いであろうに、どうしたってそこには私が自分が重なってしまうから単純に元通りなんて事にはいかない。だれでもないところから眺めることができたなら、と不可能なことを重いつつそれでも私はこの先も誰かとの(何かとの)わだかまりを絡まったままただ重ねていくしかないのだと思う。

 

そんな難しいことを頭で重い浮かべてもだらりととろけていく夏。日が沈まないのに時刻は夜で、ぬったりした空気の中をぺたぺたした安いサンダルでアイスを買いに向かう道のり。私は誰でもないところからは決して見る事の出来ない、このとろけた脳を抱えて過ごすことで、はじめて私であると思っているのかもしれない。

見たことのない魚を日常の連続の中できっとみんな見つけているのだろう。珍しいと思わないから口にしないだけであって。いつだってそこにあるのはあなたの前だけの出来事かもしれないのに。

 

夏はあっという間に終わるのだ。誰かの眺め、誰でもないところからの眺め、それはすべて自分を通した上での魚。

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くまのこオンザロード

友人の会ったこともない元彼から定期的に丁寧なメールが来る。

 

お墓が決まりました。

先月末納骨しました。

 

場所は私が今まで一度も降り立ったことのない街で、墓石には英語で苗字が彫られていた。

 

なんだか見慣れない姿になったもんだ。大好きなヴィヴィアンの服はどこにやったんだよ。

 

一家のお墓をまず先に娘が使う、その為に購入するという気分、想像ができないし曖昧な言葉はかけられないなと思っていたらお父様の電話番号を聞いたまま半年以上が経ってしまった。

 

世の中1抜けたをした彼女、今こそあなたの言葉が欲しいのになー、ずるいなーと思う三連休中日の夜。一向に居なくなった感覚は無い。実感が無いからぴえーーーんと泣き叫ぶ事もない。ただもうメールは返ってこない。

 

思い出が走馬灯のように…とか立ち直れないくらい深い傷が…とかではなく、ただただ彼女と私の時間がどんどん開いていくことを実感する。そんなもんだと思っているだろうか貴女は。実感は無くとも打っても返らない声に、ぼんやりと行き場の無い思いばかり消化しきれずたまっていく。当初は知らない元彼から連絡が来ることすらも追いつかない現実をどかすか投げつけられているようで、待って待って!とむしろイライラすらしていたのだけど、大切な誰かが居なくなるという事実を受け止められないのはみんな一緒だもんな。とうっすらとした柔らかさを持ってやりとりが出来るようになった。

 

生きるわー、なんとなく。

彼女が得られなかった生を私が代わりに!!

なんてことは思わないけどある程度報告できるくらいには生活しておかなければな、と思う。

 

数少ない私にとっての大切な人がいない夏。

教えてもらったアイスコーヒーのレシピで過ごす夏。

 

そのうち挨拶に行くし、お父様にも電話する。

私は私の納得する方法で落とし込むしかないんだろうな、そう思う。

 

物体が無いだけでこうも違うものか。 何が気持ちの問題じゃ。物体が無かったら終わりじゃ。

 

 

雨が止んだあとは

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私は人の恋愛をどうとか、相手の人はどうとか、それはやめた方がいいとか言いたくない。友人が選ぶ人はどこまでも大好きでいてほしい。大丈夫だよとずっと声をかけていたい。

世間でいうところの恋話で求められてもいないお節介を焼くコメントなどはクソだと思っているが、 それでも私の大好きな人が幸せそうで本当に嬉しいという気持ちは素直に伝えて帰宅した旅。

彼氏が全ての世界で生きていないけれど、家族でも友人でもなくまた別の自分の帰る場所があること、こころのよりどころがあること、大事にしたいなと思える人が増える事をお祝いせずにはいられまい!!と帰り際渡されたおみやげのチョコを片手にかんぱーいと祝杯をあげた自宅での深夜。

あ~!私の人生に関わる大好きな人達の所作1ミリ足りとも残らず見届けたい。

 

アイスは溶けるからカロリーゼロだよといって友人の彼氏のアイスまで食べてしまい申し訳なかった。

 

ずっとぐずついた天気だったけど帰り際わずかに晴れ間が見えて、今までぐっと苦しんでいた友人の未来を示すかのようで一人小躍りをした(怪しい)

みんなみんな誰かにとっての愛おしい人。

 

 

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