優しくない。

手話サークルに行ってる。と言っても数えてまだ片手程度だけど。数年前から手話に興味があって、でもサークル的なところを見つけては「毎週○曜日の○時~」を見ては必ず決まった時間に動けない身として勝手に(ほんと勝手に)諦めていた。

そんな中、1回だけの体験教室を見つけて迷わず応募。仕事終わりに参加してみたのが去年の11月だった。面白かった。もともと知らない世界を知るという感覚が好きで言語や人とのコミュニケーションにもすごく興味がある為「自分にとって新しい言語を知る」という組み合わせはそりゃ好きだわなと今納得している。

その後通常のサークル会場にも顔を出したが、どこの誰で普段何をしてなんでここに来ているの、とかいうどうでも良い情報を一切聞かれなかった事や、毎週行かなければいけないわけではなく来れる時に来たら良いよというスタンスもすごく馴染みやすく行くことにした。

その空間は心地よい。年齢性別関係なくただただ言語を知りたい喋りたいという人達が集まっていて知識を得ようとする人々独特の学びに熱心な空気を久しぶりに感じている。面白い!が全面に出ている空間というのだろうか。

ただ、人に手話を習い始めたと話すとなんだかしっくりこない事が何度かあってそれに関してずっと考えていた。「すごいね」「えらいね」「優しいね」と言われることが少なくなかった。なんかさ、なんだろうな…。

 

例えばこれが「フランス語」学び始めた!って言ったら反応は優しいねになるのだろうか。すごいねはあるのかもしれないけどえらいねとは言われるだろうか。

単純にその言語圏の人達とコミュニケーションを取りたいだけなのになんとなく「寄り添っている姿勢が優しい」みたいに解釈されるのが腑に落ちなくて。そこでもう寄り添う側と添われる側として無意識に分けてる気がする。どっちがどうとかない。違う言語を使う集団は違う文化を持つコミュニティであるしそこの理解を深める為にはどちらも対等である上でお互いに習得していくもなんじゃないのかな。

本当に優しい人はもっと別の所にいる。表現できない言い表しを「優しい」で片付けるなよ、と心の中で反抗したりする。少なくとも田舎ではまだまだ「外国」の話なのだ。手話は遠い外国の言語。英語圏よりもっともっと遠い。同じ国なのに。もしかしたらお隣さんかもしれないのに。逆を言えばそれほど別世界に思えるくらい分けられて生活してきたんだなと思う。

英語は小学生の頃から、第二外国語は大学に入ってから自然と現れるしテレビやラジオやメディアで自然に入ってくる情報である。ただ私の感覚としては「手話」はこちらから求めに行かなければその世界に触れることすら無く人生終わる可能性だってある。

それってすごく勿体ない気がしないかと思ったのだ。新しい言語がパスポート無しで見聞き出来るのに、自分の知らない世界がすぐそこにあるのに知らずに終わるってなんと寂しいことか。そう思って今現在過ごしている。

分からない。この気持ちが今後変化してくるのかもしれないけど今はただ知らない言語を知る機会に出会えて、自ら出会いに行って良かったなと思っている。

私は誰かの為の優しい人なんかじゃない。全然優しくない。自分の世界が自分の納得するまで広がっていくことが楽しくてただ自分の興味に従っているだけだ。こんなのを優しいとか言うなよ。ただ、知っていくことで新たな世界が見えたとき、結果としてそれが誰かの生きやすさに繋がるのならそれは勝手だよね。

興味を持って行動するときは必ずセットで敬意も持つこと。それだけは忘れずに知りたいことどんどん知って生きたい。ただそれだけ。