答えが出ないを考える

変な夢を相変わらずよく見る。変な夢というか重苦しい夢。誰かにずっと後を付けられたり、先が見えない道を這ってでも進んだり、家族が襲われるのを助けることが出来ずに傍観している、そんな夢ばかり。

汗だくで目が覚めて、ぼんやりとした視界が暗闇に馴染むまで夢か現実か区別がつかなくて泣きそうになる。悪夢は脳内の扁桃体が活発だとよく見るそうだ。何かでそういう記事を見てからは悲観しなくなった。ああどこかおかしいわけじゃないんだなって。だけどそうだとしても毎晩毎晩苦しいのは嫌だ。目が覚めたときに猫がいてよかったな。

 

0か100か、白か黒かで物事が決められないってなんて無責任なんだと昔は思っていた。だけどそういう事じゃ無いんだなって最近になってなんとなく(それでもまだなんとなく)感じている。ものすごい悪者って存在しない。完璧な悪が成立するのなら白黒ハッキリできるんだろうけど、はたして角度をかえたらそれは悪い事なのかな、原因はそこじゃなかったんじゃ…と思うようになった。例えで悪事について話しているけどわりとなんでもそうだと思う。みんな「自分なり」に良いことをやっていたり、「分かっているけど」ちょっとサボったり、「関わりたくないから」知らないふりしたり、そういう事でどうにか自分の心を保っている。別に誰かを傷つけてやろうと思っていなくてただただ自分を守るために「心を平穏に保つために」やっている事って多い。私もそう。自分の経験したことでしか視界は広がらないからどうしたって狭い視野で「無意識に」誰かを排除してしまう事もある。

差別が悪い事だと分かっているけど、じゃあその差別はどこから生まれて自分はどこに立って見ているんだろうねって。一歩動けばその考えは反転しちゃうんじゃないかなって考えることがたくさんたくさん見えてきた。これは何も対人ではなく自分自身の持っている考えに対しても言える。

こういうのは普段考えたくない。私は私の生活で精一杯だから。何度も言うけど好きな人達と家族と猫の事しか考えたくない。

でも心に余裕があるときは自分の世界とそのまわりに思考がどう巡っているのか眺めていきたいな。それはきっと私の心に良い影響を与えると思うから。

考えは変わる変えられる動く変化し続ける。そこを自分のでブレーキをかけないようにしていきたい。型があれば思考に労力を使わなくて良いから楽なんだろうなと思うけど、はたしてその楽が本当に明日の私に良いのかなって。世間体の善悪ではなく明日の自分が楽しい方に進めるのかなと考えたとき思考の停止は精神の死かもしれないなと。

こういうことをずっとずっと巡らせているとまた夜中に変な夢見て起きてしまうのだけど、その時は「扁桃体がんばってんな」と笑って猫こねて再び寝る精神を備えたい。

明日のことすら分からないのに未来まで責任もてないよ、という気持ちと今のこの思考が明日の私を楽しくする、という相反する物をどっちもしかっり握ったまま生きるつもりでいる。

 

(ああ1ヶ月前も同じような事を書いているなあ。よっぽど強くこの思いを反芻しているんだな私は。)