2022.5.24

空と海って繋がっているんだな。

 34年間何度も各地で感じていたし、別に忘れていたわけではないけど改めて目の前に広がるそれを見ると「すごいなあ」しか言葉が出なくて表現力の乏しさを感じる。けれど、そんなことはどうでも良いくらい今ここに立ててよかったわと白いタイルの反射に目をやられつつ日陰に逃げた。サングラス持ってくれば良かったな。

そもそも私は今日ここに来る予定ではなかった。本来なら今頃古着屋開拓をしてTシャツディグに明け暮れているところだったのだけど…。朝一番に友人の急な仕事が入り、予定は流れた。それならば滞在していた場所からバス一本で来られる距離にあるここに行こうと寝起きの頭でぼんやり思ったのだ。

 ずっと来たかった。ただ、自宅スタートで考えるといくつもの乗り換えがありタイミングを逃していた。何かのついでになんて想いで来れるものでは無いと感じていたし、いざ計画を立てたら流行のあれで見送りに。そろそろ落ち着いたかなと思っていたらメインのリニューアルなんかで見たい場所がお休みに。無理矢理こじつけて行くのも違う気がしていたし、行ける時はスッと現れるだろうと思っていた。そんな時にこの流れ。

 フットワークはかなり軽い方だと思っていたけど年々人に対する苦手意識が強くなり、たくさんの音がする場所や人が集まるところは避けていた。ああ、走り出す感情のままに行けなくなってきたのかな、なんて思っていたけど違った。自分の思うところへはいつだってこうやって来られるのだ。私が苦手だと思う場所は増えたけど、そこは別に行きたい場所ではないのだから。きっと死ぬまで思うところには行けるんだなと気がついて嬉しくなった。

 建築物が好きなのはいつからだったろう。記憶にあるのは小学生の頃見たテレビ番組だ。確かビートたけしが案内人で色彩に関する特別番組だった気がする。なんか映画ドールズの色彩に関してやってたし。その辺はあまり覚えていない。秋のシーンで紅葉に溢れている中、男女の衣装が被せるように真っ赤でその説明なんかをしてたっけ。菅野美穂かわいい~とは思った。その番組でスペインだったかの建築を特集していたのだ。建物がド派手なピンクや黄色で「こちらには四季が無くほぼ一年中緑が生い茂っているため常にこのコントラストが楽しめるのです」とナレーションが説明していたのを覚えている。確かにそのド派手な石壁にはどっさり緑のツタが広がっていてそれがなんとも美しかった。

建築は確かに人が手がけた人工物であるのに、ましてやこんなに派手な色を使っているのにここまで自然に溶け込むってどういう魔法かしら・・・と思った。その時はそれがどういう魅力であるのかうまく説明出来なかったけど、多分私は【どこか人間が関わっている自然】にすごく惹かれるのだと思った。自然は美しいけれど恐ろしいという思いもずっと持っていて、そこに人間の鱗片を感じると安心するのだ。ああ、ここでは自然と共存できるんだなと。開拓し町ができていく姿ではなく、昔からある田舎の風景とも違って一見不自然なまでの大きな人工物が自然の中に溶け込む静かな空間に感動する。それの代表が各地にある美術館であることが多く、中でも安藤忠雄の作品がそうだった。

人工物の代表であるコンクリートが静かに自然の中にでーんと存在しているのは想像するとかなり違和感だ。ただそこに行くと静かであたたかい。決して怖くは無い。コンクリートの階段に立ち見渡す限りの海と空、どこが境目か分からない姿を眺めては妙なバランスを保つことで生まれる親和性を感じたりする。異なるものを排除するでも破棄するでも無い。ただそこに各々が存在する。私もどこにもいけない馴染めないと感じたところで、とある場所では妙なバランスが生まれたりするんだからな。不思議なもんだよ。

自分になんでも置き換えて考えるのはよくない事なのかもしれないけれど、どうしたってそう感じてしまうのだ。彼の作品の現場では特に。

 ふと横で庭園作業をしている女性三人組が目に入った。誰の息子が帰省するだの、あそこのお店はあれが安いだの、今日の気温は耐えられないなんて話をしながらこうやっていつも作業をしているんだろうなと分かるような姿で。庭園について尋ねても「あっちに何かあるらしいよ」みたいなまるで興味の無い様子で、しかしにこやかに答えてくれるのだった。そうこうしていたら散水作業に入るのか遠くから「全開にするよ~」の声。私の興味は半分も伝わっていないだろう人のよさげなおばちゃんは慌てて「あ!!あかんあかん!全開はあかん!」と叫ぶのだった。おそらくこの後水浸しになることが予想でき、私との会話どころではなくなったおばちゃんは急いで遠くの全開発言者に向かって走って行った。

笑っちゃったな。私が生きるとか自然とか違和感とか親和性なんかを自分なりに咀嚼して落としこんでいるこの空間は彼女たちにとっては日常なのである。ただ仕事として向き合う生活の場なのである。勝手にやって来て勝手に妙な感動を飽和させている自分が少し恥ずかしくなった。忠雄の計算された空間の中で勝手に感動しているだけである。捉え方は人それぞれであるけれど作品とは作られた時間を味わうもので、当たり前だけどそこにある全て(働く人も散歩する動物も近所の学生も)が私と同じ感動を覚えるわけでは無い。ただそう思うとふっと力が抜けるのも事実。大きな何かを絶対感じ取ってそこから学びを必ず得なければいけないなんて事は無いんだよな。この空間はどこまでが作品でどこからが自然であるのか分からない。流れる時間も海も空も自然だとするのならそこに存在し一緒に時間が流れている建築ももはや自然なのかも知れない。分からないことばかりという事が分かるだけで良かったりするのかもなと。

 ここに来て良かった。自分の心がまだ止まらずにいられることが分かった。ただ理由を求めず理由などなくても惹かれるものがたくさんあると知れたのが嬉しかった。マスコットらしきタコのぬいぐるみを買って帰る。お腹を押すとピーッと鳴った。