いつか来るその日のために

 

愛は光だ 見えないけど大きく強い光だ

 

私は私のことが好きだけど、全然納得がいかなくて突然わけもわからず喉をかきむしりたくなることがある。脳と心が繋がっていなくてどうして息苦しくなるのかわからなくて、そしてジタバタ暴れたりジリジリと自分を追い込むことでしか表現できない幼稚さにも心底うんざりする。

だから自分に関わる人にもどうしたって申し訳なく思う日があって、何にもしてあげられなくてごめんと言われる事が、そう言わせてしまっていることに嗚咽が出るほど泣くこともある。

だからってどうして欲しいとか、これが理由だなんてハッキリした答えは無くて「きちんとできなくてごめん」が100パーセント脳を埋めてしまうと生きる価値なんてないに発展してしまう。それがすごく恰好悪いってことも冷静になれば分かるのに泥沼にいるときはどこにも行けない。

 

新幹線の中で開いたメールには私の『愛に対する行為ひとつひとつが誠実でまっすくでなんでこんなにあたたかくなるのか』と書いてあった。

私は私のことが好きだ。好きだけど周りにどう思われているのかはほとんど何も分かってなくて、こう捉えていてくれる人がいると改めて知ってドッと緊張が解けた感覚があった。操縦が効かない私のことを自分以外の誰かが理解しようとしてくれている、そう分かっただけで泥沼からスッと足が一歩出た。

泣きながら死を見つめながらも生にしがみついてくれてありがとうとも書いてあった。

新幹線の中で号泣してしまった。

私は私のことが好きだけどものすごく恐ろしく感じることがあってその不安はグラグラと足元を脅かしていたのに、しがみついていること喜んでくれる人がいるという事実、ほっとした。

 

愛は光だ 大きく強い光を私は彼女から注いでもらった。

喉をかきむしる夜があってもまだしがみついていいのだ。自ら強くはなれないけれど注がれた愛を受けることで強さを充満できることも知った。おそらく知っていたけど改めて気が付いた。そうだった不可思議ワンダーボーイも言っていたっけ。

 

今日よりも明日が美しいとは限らない。

でも吹き続ける風が岩の形を変えることがあるなら なんて思えばまだやれそうだ。


いつか来るその日のために

 

スクラッチで当たったら好きなもの買ってあげるが口癖

なんか今日は当たる気がする!!!

と意気込んでスクラッチに向かう友人が好きだ(私は彼女に教えてもらうまでその存在すら知らなかった)そして全然カスリもせず終えるとき心底悔しそうにしている。彼女と過ごすとものすごく楽しい。私には無いセンスと才能とかわいさを合わせ持つ。私がずっと好きだなと思う人たちはみんなそう。

仏のような人でもどこかで毒を吐いてバランス取ってるんだよね~とか、いつも笑顔でいることが幸せの秘訣なんて書かれたものは信用できねえな、みたいな話をして笑った。

そう、当たり前の事をこなせていたらこんなには捻くれた日々を送っていないのだ。彼女は街コンで今年初うんざりを体験し「ああいう所には私を含め難ありな人しか来ない」と断言し二人で苦笑いをした。私は自己愛の塊のような「あやまりま線」という手相があることをたまたま覗いた雑誌で発見し、そうとしか思えなくて冷や汗が出た。ボコボコと湧き出るかのように笑うしかない残念賞が日常で起きる。

そこを起きないように改革すべきなんだろうけど、正解の為に生きたくは無いからゆるゆると笑うしかない日々を過ごす。

別に新しい何かをこれから始めるわけでもない。私はずっと生まれたときからの私と地続きだしすべてを塗り重ねながらこれからの生を生きていくだけだ。

他人のセンスを見続けたい!その気持ちを持たせてくれる誰かは生の象徴でもあるもんなあ。数少ない私の大切な人たちを今年もずっと見続けるのだ。

 

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終わるから始まって、始めたいから終わらせる。

寂しくって色んな人と遊んでしまう友人を私は止めることが出来ない。

過去にずっと不倫していた友人にもなにも出来なかった。

 

出来ないというかやるべきではない。それは彼女の物語であるのに本人でも相手でもない誰かが口を出すべき事ではない。ただ、彼女が「楽しい」く「幸福」を感じていると良いなとは思う。クリエイティブな活動には抑圧が必要かもしれない。ノンストレスが正解だとは思えないけど、恋愛に関しては幸せを原動力に進めることが最良だと信じているので何人と遊ぼうが浮気しようが「幸せ!!」が出まくってるなら別にいいよね、倫理的なモノは本人が考えれば。という考えだ。

だけどそうじゃない姿を見ると心がヒリヒリする。決して口にはしないけど、ああ幸福に包まれてくれ!と強く祈るしかない。

寂しさを埋める為になにかにすがることがダメなのかと問われれば否定はできないけど、私の大切な大好きな人達はできるだけ愛に包まれて生きて欲しいと強く思う事は変わらない。

 

年がら年中世間が休み=仕事を味わっていると正月もどこかイベントな感覚なのだけど、年の初めに何かを想うというのは良いことなのかもしれないとずっと続けている。

 

みんな幸せになってほしい。その幸せというモノのあり方は人それぞれであれ、本人にしっくりくる幸せに包まれて欲しい。全世界に対して思いを馳せるほど人間が出来ていないので私は自分に関わる人たちだけでもと全力で祈る。(信仰心はさらさら無いくせに。)

 

ところで私の幸せとは、とも考える年の始まり。世界には明確な事よりも、形のない、名付けることのできない、答えのないものが遙かに多いことを心に留めて正しさの暴力を振るわないようにしなくちゃ。

 

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毎日誰か悲しかった話を一方的に聞かなくてもいいようにテレビを見ないのかもしれない

インタネットであんまりよく知らない人のおばあちゃんが亡くなったと知る。彼女が心底おばあちゃんを愛していた様子を見て少しだけ心配になった。都合いい話だよなー、知らない人からまるで同情のような気持ちを持たれても。

だけど死んじゃうってとっても断絶的で今あったものが2秒後突然消えてしまう…みたいな把握できない怖さだから、よく知らない彼女が心配になった。

この気持ちだけ先に送るから!頼むから耐えて!!という旨のメッセージを送ってありがとうという返事が来たことに安心し、そこに甘えていた私がその後「荷物がまとまったからやっと贈り物するよ!時間指定あったら教えて」と送ったメッセージ。
その5日前に友人は死んだ。知ったのはもっとずっと後だったけど、あのありがとうに甘えさえしなければ何かがどうにかなったんじゃないか!?という考えはずーっとある。


結局何が正解なのかは分からない。
亡くなった人の分も生きる!みたいなこと万人が出来るなんて到底思わないけど、お決まりのお悔やみ申し上げますとかR.I.Pとか言って終わり!の感覚より自分に沿う気持ちが分かってきた。

死んじゃったってなんだ…骨になるってまじで意味わかんねー!とウダウダ思ったりたまに悲しくなったり、あの子が好きだったものを食べたり飲んだり見たり聞いたりしてその時のあの子の気持ちを想像したり、そういうのって私とその人の関係があってこそしか生まれない私たちだけの感覚をぐるぐる巡ってる今が、ああこうなるしかないよなと納得はしている。そうやって生きるしかないよ。

全然知らない誰かの大切な誰かが死んじゃった事を知った時は、分かるよ、とも元気出して、とも声をかけるのは失礼な気がして。そもそもそういう関係性でもないし。

ドンドン進む日常は私がきちんと過ごすから今悲しい人たちは遠慮なく悲しいところで穏やかに過ごしてほしい、とは思う。終わりでは無かったなと何となく心のパワーが生まれるまで、変な力を使わなくてもいいようどこかの違う世界で生きる私は全力だぜ、安心してくれ、と。綺麗事なのかな。

私はただ誠実でありたい。でもその誠実さはどこに向かうものかは分からない。週の終わりに今週も生き延びたぜイェイイェイくらいのハードルで全てを許せる感覚でいたい。

 

みんなあたたかい夜を過ごしてほしいって思うことは別に悪くはないはずだ。 

 

好きな人たちが集まるアパートで生活したい

 

「はやく子供産まなきゃ年齢的にもきびしくなるでしょ~俺子供好きだからはやく欲しいんだよね」そう言われたのは遠くもないいつかの日

一回セックスしたくらいでお前のモノみたいに扱うなよ。ショックだった。本人はそういうつもりは無かったのかもしれないけれどタイムリミットが設けられたマシンのような目で見られているのではと思った。産婦人科でも出産経験者でもないお前に何が分かるんだという気持ちがジワジワわき出てきた。

 セックスくらいいくらでもしてやるから自分の人生計画にさも当たり前のように私を組み込むのを止めろ!と心の中で100回思った。

 

クソ田舎では未だに結婚出産の話で優越が決まる事が多い。私なんて最たるもので「能力が無い」なんて言われたこともある(あのクソジジイ許すまじ)

世間一般でいう段階を踏まなければ認められない世界にいる人は私だけでは無い

という事実を知れたのはインターネットをやっていて良かったと思えたことだ。だからといって納得いく解決策が生まれたわけではない。「うまく付き合っていく」しか無い。

 

おそらく周りの目を気にしている私が一番ダサい。もっと自信が持てればいいのにな。自分が描く理想郷はどこにも無いと薄々感じている今、自ら安心の世界を作らなくてはと思っている。

分かってもらえない不安がずっとあるからこそ、誰かを分かろうと動けるのかもしれませんよ、と言われた事が心の奥で少しずつ咀嚼されている。

私以外はみんな宇宙だ。知らない宇宙。姿形が「人間」で統一されているだけで全く異なる意識を持つ空間であることをずっとずっと忘れずに生きていたい。否定も援護も過剰にせず多数の意見と違う存在があればただそれだけ、なにも特別じゃないと思える心でいたい。

 

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都会のイルミネーションは1人で見ると死にたくなるけど2人で見ると100パー生きる

よく歩きよく喋りよく笑った日曜日。

12月は普段見る街もいつもと違うようで
みんなちょっとソワソワしていて
全然関係ない私も嬉しくなるから好きな月だ。

あっという間に一年か。かといって寂しさもやり遂げた感もない。日常が一歩ずつ繋がってただいつもの明日が来る感覚で何十年も経っている。

同窓会で良い女って言われたいな〜と言う友人に同意しつつ一度も同窓会に出た事が無ければ卒業アルバム燃やした事を伝えると「闇が深ぇぇ〜〜」とゲラゲラ笑ってくれた。

つまりそういう事。否定したい過去も笑い飛ばしてくれる今があることのなんと素晴らしい事か。

死にたいは生きたいの表裏一体であるって眩しすぎるイルミネーションに歓喜しながら強く思った。

みんなが夢中になってベストポジションの中撮影を試みる様子を尻目に、止まる事なく走りながらイルミネーションをパシャパシャ撮影している友人は「こんなもの撮っておけばいいんだ!」とヘラヘラしてケータイのカメラを振り回し最高にカッコ良かった。

光はただの光でしかなく収めることすらバカらしく、目で見たそれが全てである。今この時の空気と温度と音と光が全集合となってイルミネーションとなる。そんな気がした。

だけど私は撮ってしまったけど。
過去も未来も踏み倒す勢いで今にしがみついているのはそれを笑ってくれる人がいるからという一枚。

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天が高くなくとも、秋が過ぎても、肥ゆるものは肥ゆる。

先日、一日中寒空の下過ごしたら、なぜだか手がパンパンに腫れてしまった。皺も拳のくぼみも全部消えてしまうくらいに。

みんなに「手が太った!手が!」ってゲラゲラ言いながら見せては「うお、気持ち悪」「完全なデブじゃん」なんかを言われつつ。もちろん手が腫れてしまった原因は寒さによるものなんだけど。だけどひとりのおじいちゃんが

「痩せるよりずっといい!」

とにこにこしながら声をかけてくれて、痩せなきゃまじやばボディなんだけど、その言葉と表情がやけに可愛くて嬉しくなった。

痩せるよりずっといい!ってここ何十年も聞かなかった台詞だよ。

私は好きな人たちがごはんをたべるところが大好きなので、ガンガンにこの台詞を使っていこうと思う。

 

食べるは生きるだし美味しいは正義だ。