毎日誰か悲しかった話を一方的に聞かなくてもいいようにテレビを見ないのかもしれない

インタネットであんまりよく知らない人のおばあちゃんが亡くなったと知る。彼女が心底おばあちゃんを愛していた様子を見て少しだけ心配になった。都合いい話だよなー、知らない人からまるで同情のような気持ちを持たれても。

だけど死んじゃうってとっても断絶的で今あったものが2秒後突然消えてしまう…みたいな把握できない怖さだから、よく知らない彼女が心配になった。

この気持ちだけ先に送るから!頼むから耐えて!!という旨のメッセージを送ってありがとうという返事が来たことに安心し、そこに甘えていた私がその後「荷物がまとまったからやっと贈り物するよ!時間指定あったら教えて」と送ったメッセージ。
その5日前に友人は死んだ。知ったのはもっとずっと後だったけど、あのありがとうに甘えさえしなければ何かがどうにかなったんじゃないか!?という考えはずーっとある。


結局何が正解なのかは分からない。
亡くなった人の分も生きる!みたいなこと万人が出来るなんて到底思わないけど、お決まりのお悔やみ申し上げますとかR.I.Pとか言って終わり!の感覚より自分に沿う気持ちが分かってきた。

死んじゃったってなんだ…骨になるってまじで意味わかんねー!とウダウダ思ったりたまに悲しくなったり、あの子が好きだったものを食べたり飲んだり見たり聞いたりしてその時のあの子の気持ちを想像したり、そういうのって私とその人の関係があってこそしか生まれない私たちだけの感覚をぐるぐる巡ってる今が、ああこうなるしかないよなと納得はしている。そうやって生きるしかないよ。

全然知らない誰かの大切な誰かが死んじゃった事を知った時は、分かるよ、とも元気出して、とも声をかけるのは失礼な気がして。そもそもそういう関係性でもないし。

ドンドン進む日常は私がきちんと過ごすから今悲しい人たちは遠慮なく悲しいところで穏やかに過ごしてほしい、とは思う。終わりでは無かったなと何となく心のパワーが生まれるまで、変な力を使わなくてもいいようどこかの違う世界で生きる私は全力だぜ、安心してくれ、と。綺麗事なのかな。

私はただ誠実でありたい。でもその誠実さはどこに向かうものかは分からない。週の終わりに今週も生き延びたぜイェイイェイくらいのハードルで全てを許せる感覚でいたい。

 

みんなあたたかい夜を過ごしてほしいって思うことは別に悪くはないはずだ。