生活である流れ

朝日を見てやろうと思っていたのに、目が覚めたら7時を過ぎていた。

ついこの前まで日の出は7時10分くらいだったのに、もう6時30分には日は出るらしい。きちんと地球は回っているもんだなあ。

 

せっかくのお休みなのに前から狙っていた新幹線で行く大阪まで片道5000円の旅は九州発限定らしく、断念。天気予報では九州地方に分類される県なのにこういうのは除外されちゃうのねとすねた。でもまあ先週くらいから怪しかった風邪がついに喉を潰しにかかったので、気合だけは負けるかこのやろと思いつつ完全敗北(声が出ない)な私は静かに引きこもっている。日が変われば自然治癒で声も出るだろうというダラダラとした考え。

 

引きこもるという言葉が正しいのかどうかわからないけれど、思えば私はこういう過ごし方がとても好きだ。

こういうっていうのは、誰かと待ち合わせたりせず、行きたい時に好きな場所へ一人で向かったり、やりたいことを自分のタイミングで行ったり、何もせずじっと家にいるということも楽しいと思っている。

 

誰かのトイレに付き合ったり、流行のものを褒め合ったり、空気を読む事が仲間だと思われていた学生時代では無いのだ、今はもう。

そうだったそうだった。何かの噂をするのはとても苦痛だったし誰かの恋愛相談に「えーやめときなよ」とかアドバイスする空間も苦手だった。

そこの人も遠くの人も未だ会ったことのない人も、そしてあなたも自由であるべきなのにどうしてこうも比較する世界が心地よいと思っているんだろうみんな。

世は一億総ご意見番時代じゃ。と戦の勢いよろしく旗を振りまくっている(脳内で)

どこでも誰でも他人だろうがその背景も関係なくシロクロはっきりさせるのが正義!大多数の意見が正解!その人を正さなければ、みんなで、全員一丸となって!例えその人が苦しんで病んでしまったとしてもみんなで正義を振りかざしているのだから自分の一振りがとどめを刺してしまったなんて到底気が付かないだろう。

 

私がテレビを見なくなったのは大学生になってからだと思う。

流れる情報量と色が多すぎて全然追いつけない。そんなに駆け足で進むなよ世界。自分の土俵にまで誰かを引きずり降ろして戦う姿は醜いし、善意が巨大な暴力を振るうこともある。

私のこの気持ち、あなたに伝わっているのだろうか、伝わるといいなあと心に抱きながら誰かと話をする。遮断せず、強要せず、誇張せず、その人の背景も想像して言葉を口にしようとするとなかなかコミュニケーションがうまくいかず何テンポも遅れた人間になってしまう。

29年生きてきてこれだからきっとこの先死ぬまでこれなんだろうな、と半ば諦めつつそのテンポに合う空間に身を置けばなんとなく回復はできるというところまで学習した。今はこうして家で過ごすお休みも心地よいなと思ってたらもう日付が変わっていたし喉は全然治っていない。

 

明日こそ朝日をみてやるか!

守れもしない目標を立てるのは明日への希望である気がする。

あ、もうひとつ。いつも迷ってたどり着けないパン屋チャレンジもしよう。

明日こそたどり着けるだろう。

 

書くこととは全然、全く違う。

いつだったかブログというものをやっていた気もするけど、久しぶりにこうやって自分の頭の中を文字にする。大学中は絶賛mixi万々歳な世間だったのだけど、ふとした瞬間にmixiの文字が泣きながらグーパンチしているウサギにしか見えなくなって、はたと辞めてしまった。

 

m ixi

 

 

 

私にはツイッターの140文字という制限の中で今、その瞬間に、という感覚がとても沿っていると思うけど、一旦スイッチが入ると続々と頭の中身が出てくるのでこうやって制限なしに書き出せる場所はいいなあと思った。改めて。

 

絵本は小さな頃から大好きで、夕飯の片づけを母がしている中、本の部屋からその日の一冊を選んで父親まで持って行くと膝の上に私を乗せて読んでくれた。内容ははちゃめちゃで、父のオリジナル。原作丸無視だったけど私はそれが大好きで私の幸福のカタチの原点はそこにある気がしている。

 

絵本と小説は全然違う。

私は小説が読めない。大人に向けて書いた嘘の物語(言い方が悪いかもしれない)ありえるかもしれない環境を背景にした想像上の話がとても苦手なのだ。

現実味を帯びていて、他人の目として読めない。自分の中に入ってきてとても疲れてしまう。他人の人生をくるっとひとまとめに背負ってしまう感覚になるのだ。

人の人生まで生きる暇はない。

とは言い過ぎかもしれないけれど、いわゆる読書離れの人なんだと思う。本をたくさん読んでいることはとても素敵な事なんだろうな、と思ってはいるけど読めない種類があっても間違いではないよな、と自己肯定している。

 

私がすきなのは、自然の流れとか、海とか山とか、生活に関する本だ。そこにあるものがどこから来たのか、とかも好きだ。これは父親の影響が大きいと思う。

父が小説を読んでいるのは見たことがない。だいたい図鑑や辞書や研究所。自然界のしくみについて書いてあるものばかりだ。

歴史的人物の話もあまり興味が無い。

昔生きた人が何をしてようが自由だ、現代の我々にとやかく言われるのは嫌なのかもしれない。死んだ後はそっとしておいてほしいかもしれないから。

 

小説が読めない私が文字を並べるというのは、読み手のことも考えちゃいないし、文章の構成もダラダラだ。だからこれは物語ではない。

 

物語ではないよ、私の脳内だ。

きっと追記も変更もするだろう。

私の溢れる頭の中身がこぼれてよそに流れるようならここにとりあえず置いておこう、そうする事にした。