愛とか考えるほど

自分のも含め人間のセックスを見ることが元々苦手だったけど、あの一件があってからセックスすること自体気持ちが悪くなってしまった。こわいし気持ちが悪い。そこに愛しかなかったとしても気持ち悪さが勝つ。私は処理の対象なのかなとか誰かにこのこと話すのかなとかまた動画撮られる事があるかもしれない、という不安が爆発してしまう。そういう事をしなくても関係性が壊れない状態がいい。

おゆみさんがちょうど今「セックス誘われる=女として魅力があるから羨ましい、というキツイ解釈を女にされた時は喧嘩売ってんのかなと死ぬほど思った。本当にそうなら誘わないで信頼関係築くことを優先するよね。どうでもいいから処理器として見られるし人間だと思われてないんです。むしろ誘われないことを誇りに思ってほしい。」ってつぶやいてて刺さりすぎて倒れた。

終わらない愛(絶対的な愛)みたいなのが成立する関係がとてもとても好きで、だから私は恋愛ではない関係性での愛に絶対的な安心感と自信を持っている気がする。 家族や家族同様の友人に対する愛は底知らずに湧き出てくる(これはもちろん私が生まれ育った環境で常にたくさんの愛を与えてもらっていたから自然とそういう感覚になっていると言える)

「◯◯じゃなくなったらその関係性は終わりを迎えてしまうかも知れない」という形に楽しみは見出せても憧れや安心は全く得られず、その代表と言えるのが恋愛であると思っていて、せっかく仲良くなれた人でも恋愛感情を持ち出されたら、ああこの関係も終わりなのかと寂しくなる。終わりというか変化させていかなければならないというプレッシャーをひしひしと感じてしまう。関係性を変化させることが人生でのステップアップになりがちだけど私にはそれは違和感でしか無く、時が止まったかのようなどこかに取り残されたかのような、しかしそこには穏やかさと絶対的な信頼がある、という状態が私にとってのすばらしい世界である気がして。

随分昔に「愛と平和のかたまりである(私)ちゃんにはそういう意味で家族や家庭というのがしっくりくる」と言われたこと、今になってなんとなく納得している。法律的な家庭とかいうものには今も違和感を拭えなけど、日々感じられる穏やかな愛といものが一般的に家族を指すのだとした私にそれはぴったりなのだと思う。

友人達のことを誰かに話すときに友達という関係性では収まらず、家族というか恋人というかその全部みたいな伝え方をしてしまうのもその通りだなって笑ってしまった。

性別関係なく大好きで穏やかな人たちが同じアパートの別の部屋で過ごす生活を家族と呼べるのならそれが一番いいな。愛はかたちが無くて目に見えない。私はいまどれだけの愛を注がれてまたは注いでいるのか可視化できないけれどこうやってウダウダ言いつつ「うわ~愛されているな」とニヤニヤしちゃう無敵な状態は多々有るのでその分私も注いでいきたいな、愛を大切な人たち全方位に。受け取る側の喜びだけに頼らずに与える側の喜びを見出せたらいいなぁ。

完全無欠の愛、それは死ぬまで大切な人たちを大切にするかたち(完全なんて信じないけれど私が死んだ時点でそれは完成するとは強く思っている。)

その「かたち」ってもの、いつか自分の言葉で表現できるといいな。