日々の延長

寝て起きて仕事に行き帰宅後ねこと遊び過ごす毎日。

日々ラジオを聴き、自炊で三食摂り、花に水をやる。

「おだやかな暮らし」と言うやつのお手本のような生活だと思うのだけど

私の暮らしはきっと人々にとっては退屈であろうなと思う。

例え褒め言葉であろうとも「変わっているね」と言われると心底ショックだ。

それと同時に変わっている事を率先して好む人達も少し苦手だ。

選ばれし己のセンス!という選民意識が強い集団はとてもこわい。

 

なるべく波風起こさず、何かの活動をするわけでもなく、読書も映画も見ず

旅行も一人でする。

 

子供も老人も男も女も、基本的に私は人間が好きだ。

種として同じとされるけれど個々がこれほど違う生き物が沢山、なんて面白いんだろうと思う。だけど常に行動を共にしたいわけじゃない。

 

人と関わる事でエネルギーをぐんぐん循環させる人たちがいるとしたら

私は自分の内の内の方で沸き立つ気持ちをひとつひとつ消化するタイプだと思う。

こう割り切れるようになったのも最近で、みんなが言うフツーに追いつけなくて混乱していた時期もあった。

 

即反応、即判断、即評価が最近の流れなのか素人だろうがなんだろうが関係なくなんでも感想や意見を発信する世間のなかで「よくわからない」という感情をずっと抱え込む私はオカシイのかもしれない。

だけどすぐに何かを見出すのはとても難しい、私にとっては。

 抱え込んだものとずっと向き合う事に集中すると日常を生活するので手一杯になる。

外に出る事が楽しいと思えない日もある。

 

昨日見た桜は満開だった。寄ってきた子供に「なんさいですか」と訪ねたらはっきりとした口調で「35さい」と答えた。まさかの先輩。

年齢はただの数字でしか無く、物事の感情をどう捉えるかの基準にはならない。

その35さいの小さい先輩とお花がきれいだね、そうだねとぼんやりおなじものを見つめていた。彼女の中で思い描くその感情と私のとはきっと全然違うのだろう。

だけどそれを表明することなく(その方法も分からず)ただ無言で見つめる空気が静かで心地よかった。

 

 生活の1秒が続いていく明日であることの幸せをその子も感じて大きくなってほしい。

平凡が一番だよ。美味しい、楽しい、美しいで満たされた穏やかな日々よ。