20161206

どこから始めよう。

全く眠れない夜が続く。向こうには友人もいる。

 

見えていた未来が急に曇って見えなくなってしまうのは恐ろしいことだ。
ここを越えなければいけないことは百も承知だ。
強くも頑丈でもない私は、涙を流しても弱音を吐いても足が萎えても行かなければ。

 

ああでも神様、せめて少しの光があれば。

だってほんとにそう

もう○○歳だから…とか言うのやめにしたらいいのに。いつ会話しても年齢のことばかり話す人がいる。つまんない。人生ナンバーカウンターかっつうの。自分のことだけでなく「(私)ちゃんももう30でしょ~?」とか言ってくる。めんどくせの一言である。

 

私はいつでも今の歳がいいなって思う。心も体も。

年収は全然納得いかないけどそれは死ぬまでそうだからいいや。

 

もう若くないからって理由で何かを諦めるのって本当に馬鹿らしい。誰が決めたことなんだろう。好きなことをやりたいときに始めたらいいのに。たとえ明日死ぬとして、何かをスタートすることがダメだなんて誰が言ったのか。

そもそも若さだけに価値を見いだしてしまうのは人生は4分の1で輝きを失ってあとは「○○歳だからできない」による縛りと諦めを繰り返していくってことでしょ。そんなのってヘンだ。

みんな思い思いに自分の行動をしてほしい。恋愛だって仕事だってファッションだってそう。周りにそんなことを言う人がいれば、年齢に毒されている可哀想な人だと割り切っていい。

年齢に付随する責任感を問うひとがいるけど、そんなのは何歳だって各々の環境に応じて付随してくるものだから年齢を言い訳にするなよだせえ、で終わり。

そうやって加齢を言い訳に何もせずに老化していく事で何を得られるのだろうか。

今年75になる母は「ピアスを開けたい」って言ってるし73になる父は英語の勉強をはじめた。最高だ。

 

別に長生きしたいわけじゃないけど、加齢を否定した人生は送りたくない。どこにだって行ける。いつだってそう。

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好きに単位も容量も無いし目に見えることも無いのに「いっぱい」ってつくの可愛い。

胃腸の調子がどうにもよくない。

良い先生と薬剤師さんのサポートで合うお薬には出会ったけど「あくまでお薬だから、それが無くても良い状態にしていきましょう」という話。なんと商売っ気のない人たちなんだと思う(ほめている)

お腹が色んな意味でクソすぎるので丸まって過ごしたい毎日。

 

好きな人に好きだと伝えたり、自分が見たい、知りたいと思う事にまっすぐむかうことは良いなあとシンプルに感じたこの数日だった。知らない街はいつだって楽しい。それはもちろん自分の帰る場所があるという前提のもとだから楽しめるのかもしれないけれど。

旅行中はいろんな人のいろんな気持ちを垣間見ることが多く、赤の他人だけどみんなそれぞれ生きてるなと当たり前の事をダイレクトに感じられるから好きだ。ごちゃごちゃしたそれぞれの生が交差するなかにいる事が分かると、気負いせず自分の生活を送る事ができる。

あちらこちらで梅が咲いているのをみると誰かが言ってた「梅が咲くから春が来るのか、春が来たから梅が咲くのか」を思い出す。心は全然ついていって無いのに季節ばかりがまぶしい春だ。

もちろん投げやりになっているわけではない。うっすらと膜のように張った「死にてえな」はもうどうしようもない事なのでそれを引き連れたまま、それでも大切な人たちと話すとまだ自分が未来を望んでいいことも分かって嬉しかった。

 

…本当は全然死にたくない。あんな感情クソくらえだと丸めて投げ捨てたい。だけどそうできないまま生きているのだから。何度もいうけど死にたいは生きたいの表裏一体であるから見つめる勇気がもっと欲しい。

ネガティヴに向き合うことが今月の目標であったな(先生と決めている)見えない感情と向き合うって意味が分からない無理お手上げ助けて、と半笑いしているけどきっと大丈夫、そう思えた。

私のいっぱい好きが分かったから。

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発芽玄米

髪をショートにした時に「ワックスで整えなよ」と美容師さんから言われていたのに全然やっていない。いつも寝起きに手グシでがしがしやるのみ。右に分けても左に分けてもどっちつかずのピヨ毛が発生し、いつも困ってしまうけど、まああなたはそこでピヨってなさいと諦めるしかない。

もう何年も腰まで届くスーパーロングだったし頑なに変えなかったのに、切ってしまえば短い方がいいなんて言われて「私の数年間はなんだったんだ」って呆気に取られた。

だけど好きで伸ばしていたわけだし、もうあそこまで長くすることは無いかなと思うと良い記念だ。

なんだってそう、人はなんでも意味を持たせたがる。理由がないと自分の行動に意味を見出せないから。意味とか理由とかそういうものが無いとだんだん動けなくなっちゃって。あれ?そんな重苦しいものだったっけ…とかつて自分がやりたくてやっていたものたちを手放していく。

 

腰まで届く髪がショートだった何年も前の私しかしらない人と偶然連絡することとなり、流れで実は会わない間にめちゃくちゃ髪が長かったんだよという話をした。でもその人にとっては私の髪が長かった期間のほうが不思議なわけで「あなたはずっと短いイメージだったからねえ」だって。

 

そうかそうか、知ってることが全てであって知らないことは無いものとされるんだもんなって、当たり前の事に納得。それならあらゆる自己の「変わること変わらないこと」への不安も他人にとっては知らないものなのだから力むことないってなんだか少し落ち着いた。

 

発芽玄米みたいにぴょこぴょこ跳ねるピヨ毛もそのうち愛おしくなるだろう。

 

私は私になりたくってずっと苦しんでいるけど好きなものを見て、食べて、踊って、歩いて、笑って知らないこと全部見たい。それが私になって死ぬ全てだと思う。

自己の葛藤はずーっと拭えないからそれならせめて、無意味であることの楽しさは忘れずにいたい。理由などなくてもいいと自分が強く思える心でいたい。

 

 

いつか来るその日のために

 

愛は光だ 見えないけど大きく強い光だ

 

私は私のことが好きだけど、全然納得がいかなくて突然わけもわからず喉をかきむしりたくなることがある。脳と心が繋がっていなくてどうして息苦しくなるのかわからなくて、そしてジタバタ暴れたりジリジリと自分を追い込むことでしか表現できない幼稚さにも心底うんざりする。

だから自分に関わる人にもどうしたって申し訳なく思う日があって、何にもしてあげられなくてごめんと言われる事が、そう言わせてしまっていることに嗚咽が出るほど泣くこともある。

だからってどうして欲しいとか、これが理由だなんてハッキリした答えは無くて「きちんとできなくてごめん」が100パーセント脳を埋めてしまうと生きる価値なんてないに発展してしまう。それがすごく恰好悪いってことも冷静になれば分かるのに泥沼にいるときはどこにも行けない。

 

新幹線の中で開いたメールには私の『愛に対する行為ひとつひとつが誠実でまっすくでなんでこんなにあたたかくなるのか』と書いてあった。

私は私のことが好きだ。好きだけど周りにどう思われているのかはほとんど何も分かってなくて、こう捉えていてくれる人がいると改めて知ってドッと緊張が解けた感覚があった。操縦が効かない私のことを自分以外の誰かが理解しようとしてくれている、そう分かっただけで泥沼からスッと足が一歩出た。

泣きながら死を見つめながらも生にしがみついてくれてありがとうとも書いてあった。

新幹線の中で号泣してしまった。

私は私のことが好きだけどものすごく恐ろしく感じることがあってその不安はグラグラと足元を脅かしていたのに、しがみついていること喜んでくれる人がいるという事実、ほっとした。

 

愛は光だ 大きく強い光を私は彼女から注いでもらった。

喉をかきむしる夜があってもまだしがみついていいのだ。自ら強くはなれないけれど注がれた愛を受けることで強さを充満できることも知った。おそらく知っていたけど改めて気が付いた。そうだった不可思議ワンダーボーイも言っていたっけ。

 

今日よりも明日が美しいとは限らない。

でも吹き続ける風が岩の形を変えることがあるなら なんて思えばまだやれそうだ。


いつか来るその日のために

 

スクラッチで当たったら好きなもの買ってあげるが口癖

なんか今日は当たる気がする!!!

と意気込んでスクラッチに向かう友人が好きだ(私は彼女に教えてもらうまでその存在すら知らなかった)そして全然カスリもせず終えるとき心底悔しそうにしている。彼女と過ごすとものすごく楽しい。私には無いセンスと才能とかわいさを合わせ持つ。私がずっと好きだなと思う人たちはみんなそう。

仏のような人でもどこかで毒を吐いてバランス取ってるんだよね~とか、いつも笑顔でいることが幸せの秘訣なんて書かれたものは信用できねえな、みたいな話をして笑った。

そう、当たり前の事をこなせていたらこんなには捻くれた日々を送っていないのだ。彼女は街コンで今年初うんざりを体験し「ああいう所には私を含め難ありな人しか来ない」と断言し二人で苦笑いをした。私は自己愛の塊のような「あやまりま線」という手相があることをたまたま覗いた雑誌で発見し、そうとしか思えなくて冷や汗が出た。ボコボコと湧き出るかのように笑うしかない残念賞が日常で起きる。

そこを起きないように改革すべきなんだろうけど、正解の為に生きたくは無いからゆるゆると笑うしかない日々を過ごす。

別に新しい何かをこれから始めるわけでもない。私はずっと生まれたときからの私と地続きだしすべてを塗り重ねながらこれからの生を生きていくだけだ。

他人のセンスを見続けたい!その気持ちを持たせてくれる誰かは生の象徴でもあるもんなあ。数少ない私の大切な人たちを今年もずっと見続けるのだ。

 

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終わるから始まって、始めたいから終わらせる。

寂しくって色んな人と遊んでしまう友人を私は止めることが出来ない。

過去にずっと不倫していた友人にもなにも出来なかった。

 

出来ないというかやるべきではない。それは彼女の物語であるのに本人でも相手でもない誰かが口を出すべき事ではない。ただ、彼女が「楽しい」く「幸福」を感じていると良いなとは思う。クリエイティブな活動には抑圧が必要かもしれない。ノンストレスが正解だとは思えないけど、恋愛に関しては幸せを原動力に進めることが最良だと信じているので何人と遊ぼうが浮気しようが「幸せ!!」が出まくってるなら別にいいよね、倫理的なモノは本人が考えれば。という考えだ。

だけどそうじゃない姿を見ると心がヒリヒリする。決して口にはしないけど、ああ幸福に包まれてくれ!と強く祈るしかない。

寂しさを埋める為になにかにすがることがダメなのかと問われれば否定はできないけど、私の大切な大好きな人達はできるだけ愛に包まれて生きて欲しいと強く思う事は変わらない。

 

年がら年中世間が休み=仕事を味わっていると正月もどこかイベントな感覚なのだけど、年の初めに何かを想うというのは良いことなのかもしれないとずっと続けている。

 

みんな幸せになってほしい。その幸せというモノのあり方は人それぞれであれ、本人にしっくりくる幸せに包まれて欲しい。全世界に対して思いを馳せるほど人間が出来ていないので私は自分に関わる人たちだけでもと全力で祈る。(信仰心はさらさら無いくせに。)

 

ところで私の幸せとは、とも考える年の始まり。世界には明確な事よりも、形のない、名付けることのできない、答えのないものが遙かに多いことを心に留めて正しさの暴力を振るわないようにしなくちゃ。

 

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