見えるものも大事、もちろん

書くぞ書くぞ書くぞ

絞り出したやっとの言葉はすんなり拒否され肩すかしだったし一気に無になってしまった。こう頭がドクドクしているときはなんでも吐き出した方がいい、きっと。

 

猫の毛がまたおへそに入ってる。毎日毎日見たら絶対入ってるんだよなー。おへそから侵入を試みているに違いない。ある日目が覚めて猫になってたら女の人に飼ってもらいたい。そんで遊びに来る男の人にプイとかしたい。

 

仲良しで大切にしている女性たちはもう本当に大切で(語彙力)家族なのかはたまた私自身の一部なのかってくらいに想っている。私は同性愛者ではないので男性が恋愛対象になるのだけれど、セックスしてしまえば満たされてしまう側面があり、安心と繋がりが可視化しやすい気がする(もちろん好きな人とのってことで)ここまで来たから分かり合えたであろう、みたいなステージを設けやすい存在だ異性って。ときめきも分かりやすく、そのわかりやすいは良いことだけど時にとても寂しくもある。物理的に触れる安心感はその逆も起こりやすいから。

 

だけど女の人はそうじゃなくって、どこまでいってもよくわからない。可視化できない安心や理解をお互い得られたとき「あ、この人は絶対だな」ってなんだか自分のなかで強く思ってしまう。

私がそんな風に思える女性なんて片手ほども居なくって(単純に人づきあいが下手)だからずっとずっともっと愛情を注ぐぞ~と思う。彼女たちには常に春風のようにすごしてほしい。軽やかに朗らかに。

 

 

 

outside yourself

私はこの30年何をしてきたのかなあ。

誰だって完璧に生きられるわけないし、見えないだけであの人もこの人もずっと抱えている悩みがあるんだろうけど、それでも私の存在が悪だという事実は情けないくらいにどうしようもできない。自分の行動が誰かを傷つけているのかと改めて思うといたたまれなくなる。結局逃げているしそこを突かれたらなんの正しさも出せずおろおろした姿を露呈するだけだ。

他人からの承認欲求ばかりを埋めようとして私は大切なものごとをどんどん失う。何も変わっていない。変わろうとした数年前から何も。

冷静な脳がほしい。しっかりしろ。

 まとまらない思考があふれると昔からこういったところにはき出してしまう傾向にある。なるほど3月の投稿が多すぎるわけ。機械の文字として記録するとまるで私ではない誰かの頭をみている気分になれる。だからといいって何も解決しないわけだが。

そして長風呂と鬱気分は比例している。

 

もっとロボットのように割り切れたらいいのにな。時間とお金で割り切れることができたら感情なんて置いていけるのに。それは同時に私と私に関わる全ての人をぶん殴ってしまうことになるのだけれど。

自分が口にする「だから」で結ばれるその先の理不尽さに一番理解できていない私の捨て場を探している。

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ヒットエンドラーン

最近はもう罪悪感しかない。それが占めちゃうと楽しいとか愛おしいとかそういうのが全部かきけされてしまって「無能」がずーっと目の前でゆらゆら揺れている。そんな夜を過ごし 前日は一睡もできなかった。ずーっと自殺サイトを見て過ごすみたいな死しかない状態であり、朝しこたま吐いて「おれの人生…」ってなった。

誠実であるには勇気がいるよね

という言葉が飛んできて側頭部に刺さっている。私は何に対しての誠実さを求めているのだろうか。自分のことをなんだと思っているのか。

私は私のまま生きていくしかないとか、別の誰かにはなれないとか、自分を傷つけちゃいけないとか、がんじがらめだ。話せないことばかり。

 どこだって行けると思える時との高低差をなくしたい。躁鬱の気が抜けないことが引っかかっていつもこれは私のやりたいことなのか、本心なのか問う。まっっったく分からない。へらへら力なく笑うしかない。いつだったか躁鬱のことを話したときに「ヒットエンドラーン」と高らかに言ってもらったときのようにそんなもの無視したいな。

誰かがいたって家族が大好きだって消えたいという感情はつきまとうのだ。生きるか死ぬしか選択が見つからなくて浅はかな低脳である。

それは君が浅はかだ!そう言われたのはつい最近のこと。

 勇気がほしい。失ったり変化することへ立ち向かう勇気と生きる勇気。

 

 

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20161206

どこから始めよう。

全く眠れない夜が続く。向こうには友人もいる。

 

見えていた未来が急に曇って見えなくなってしまうのは恐ろしいことだ。
ここを越えなければいけないことは百も承知だ。
強くも頑丈でもない私は、涙を流しても弱音を吐いても足が萎えても行かなければ。

 

ああでも神様、せめて少しの光があれば。

だってほんとにそう

もう○○歳だから…とか言うのやめにしたらいいのに。いつ会話しても年齢のことばかり話す人がいる。つまんない。人生ナンバーカウンターかっつうの。自分のことだけでなく「(私)ちゃんももう30でしょ~?」とか言ってくる。めんどくせの一言である。

 

私はいつでも今の歳がいいなって思う。心も体も。

年収は全然納得いかないけどそれは死ぬまでそうだからいいや。

 

もう若くないからって理由で何かを諦めるのって本当に馬鹿らしい。誰が決めたことなんだろう。好きなことをやりたいときに始めたらいいのに。たとえ明日死ぬとして、何かをスタートすることがダメだなんて誰が言ったのか。

そもそも若さだけに価値を見いだしてしまうのは人生は4分の1で輝きを失ってあとは「○○歳だからできない」による縛りと諦めを繰り返していくってことでしょ。そんなのってヘンだ。

みんな思い思いに自分の行動をしてほしい。恋愛だって仕事だってファッションだってそう。周りにそんなことを言う人がいれば、年齢に毒されている可哀想な人だと割り切っていい。

年齢に付随する責任感を問うひとがいるけど、そんなのは何歳だって各々の環境に応じて付随してくるものだから年齢を言い訳にするなよだせえ、で終わり。

そうやって加齢を言い訳に何もせずに老化していく事で何を得られるのだろうか。

今年75になる母は「ピアスを開けたい」って言ってるし73になる父は英語の勉強をはじめた。最高だ。

 

別に長生きしたいわけじゃないけど、加齢を否定した人生は送りたくない。どこにだって行ける。いつだってそう。

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好きに単位も容量も無いし目に見えることも無いのに「いっぱい」ってつくの可愛い。

胃腸の調子がどうにもよくない。

良い先生と薬剤師さんのサポートで合うお薬には出会ったけど「あくまでお薬だから、それが無くても良い状態にしていきましょう」という話。なんと商売っ気のない人たちなんだと思う(ほめている)

お腹が色んな意味でクソすぎるので丸まって過ごしたい毎日。

 

好きな人に好きだと伝えたり、自分が見たい、知りたいと思う事にまっすぐむかうことは良いなあとシンプルに感じたこの数日だった。知らない街はいつだって楽しい。それはもちろん自分の帰る場所があるという前提のもとだから楽しめるのかもしれないけれど。

旅行中はいろんな人のいろんな気持ちを垣間見ることが多く、赤の他人だけどみんなそれぞれ生きてるなと当たり前の事をダイレクトに感じられるから好きだ。ごちゃごちゃしたそれぞれの生が交差するなかにいる事が分かると、気負いせず自分の生活を送る事ができる。

あちらこちらで梅が咲いているのをみると誰かが言ってた「梅が咲くから春が来るのか、春が来たから梅が咲くのか」を思い出す。心は全然ついていって無いのに季節ばかりがまぶしい春だ。

もちろん投げやりになっているわけではない。うっすらと膜のように張った「死にてえな」はもうどうしようもない事なのでそれを引き連れたまま、それでも大切な人たちと話すとまだ自分が未来を望んでいいことも分かって嬉しかった。

 

…本当は全然死にたくない。あんな感情クソくらえだと丸めて投げ捨てたい。だけどそうできないまま生きているのだから。何度もいうけど死にたいは生きたいの表裏一体であるから見つめる勇気がもっと欲しい。

ネガティヴに向き合うことが今月の目標であったな(先生と決めている)見えない感情と向き合うって意味が分からない無理お手上げ助けて、と半笑いしているけどきっと大丈夫、そう思えた。

私のいっぱい好きが分かったから。

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発芽玄米

髪をショートにした時に「ワックスで整えなよ」と美容師さんから言われていたのに全然やっていない。いつも寝起きに手グシでがしがしやるのみ。右に分けても左に分けてもどっちつかずのピヨ毛が発生し、いつも困ってしまうけど、まああなたはそこでピヨってなさいと諦めるしかない。

もう何年も腰まで届くスーパーロングだったし頑なに変えなかったのに、切ってしまえば短い方がいいなんて言われて「私の数年間はなんだったんだ」って呆気に取られた。

だけど好きで伸ばしていたわけだし、もうあそこまで長くすることは無いかなと思うと良い記念だ。

なんだってそう、人はなんでも意味を持たせたがる。理由がないと自分の行動に意味を見出せないから。意味とか理由とかそういうものが無いとだんだん動けなくなっちゃって。あれ?そんな重苦しいものだったっけ…とかつて自分がやりたくてやっていたものたちを手放していく。

 

腰まで届く髪がショートだった何年も前の私しかしらない人と偶然連絡することとなり、流れで実は会わない間にめちゃくちゃ髪が長かったんだよという話をした。でもその人にとっては私の髪が長かった期間のほうが不思議なわけで「あなたはずっと短いイメージだったからねえ」だって。

 

そうかそうか、知ってることが全てであって知らないことは無いものとされるんだもんなって、当たり前の事に納得。それならあらゆる自己の「変わること変わらないこと」への不安も他人にとっては知らないものなのだから力むことないってなんだか少し落ち着いた。

 

発芽玄米みたいにぴょこぴょこ跳ねるピヨ毛もそのうち愛おしくなるだろう。

 

私は私になりたくってずっと苦しんでいるけど好きなものを見て、食べて、踊って、歩いて、笑って知らないこと全部見たい。それが私になって死ぬ全てだと思う。

自己の葛藤はずーっと拭えないからそれならせめて、無意味であることの楽しさは忘れずにいたい。理由などなくてもいいと自分が強く思える心でいたい。