I'm so lucky to have you in my life.

夏らしい夏を送ることなく無理矢理詰め込んだ「海」の予定は墓地をくぐり、獣道を這い、抜けたところに現れる誰も居ない場所だった。

泳ぐことはおろか革のサンダルで来てしまったので足も漬けることなく寂しく波打つ音と潮の匂いを感じながら「ああ、今ここで拉致られても誰にも助けてもらえないな…死」と思ったのだった。海なんて一人で行くもんじゃねえ。

盛り上がりとはかけ離れた休日をそうして送ったけど心は穏やかで、こんな日がずっと続けばいいのになあと思った。

たっぷりとした睡眠と穏やかな気候、しっかり食べるごはん。それだけ揃えばなんとなく良いと思ってしまえるのだから誰もが描く「おだやかな日々」なんてすぐそこにあるのかもしれない。だけどその三点が揃うことってなかなか無いんだもんなあ。

欠けてしまったおだやかさを別の何かで補填して「おだやかな日々」に近づこうとしているのだろうけど、どこか違うちぐはぐなものに仕上がってしまって苦笑い。

I'm so lucky to have you in my life.

ちぐはぐな私にそう言ってくれる存在もいるから、自分の判断で自分を蔑むのはやめようと思ったりまた目が覚めたら忘れていたり。

 

冷蔵庫の中に1年放置してあったチューハイをようやく飲んだら忘れられていた味がした。夏の終わり。目の前のものを見ないふりして過ごすことは後々心をえぐり取られるヘビー級パンチになったりするもんだ。

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Sigur Rós er Trúarbrögð

私の周りには生活に宗教がある人達が多く、それがどうとかいうわけでは無いけど宗教がある生活とは何なのか。何故私はその生活じゃないのか、というのをふと考えることがあった。

 

新興宗教やカルト的なものに突発的にハマらない限り、宗教とは親から受ける教養の一部なのかもしれないねえ、なんて話をしたことがある。朝起きたら顔を洗う、ご飯の前にはいただきます、な流れでごく自然に受け継がれるその家独自の「生活」というものに組み込まれた宗教。

 

「そう考えると(私)ちゃんにとっての宗教は山なのかもしれないね」とその会話の時に言われたことをすごく覚えている、そしてそれを言われてとても嬉しかったという事も。

父も母も人の姿をした神に対する信仰心はあまり無く、どちらかと言えばその石にも、その川にも、昨日食べた野菜にも神がいるという八百万神信仰だ。それは私達の生活にぴったり沿うものであったしその流れになったのも必然というか、これこそ教養と生活から生まれ親から引き継ぐ宗教という説明がしっくり来る。

 

先日シガーロスのライブに行った。2013年の来日以来4年ぶり。私はルールとして許されようがなんだろうがライブをケータイで撮影するその画面の光がチラチラなることを親の敵のごとく嫌うので、なるべく前に行きたいと今回は頑張った。

ギチギチに詰まった会場前方で隣は2秒も黙っていられないインスタ映え命な男女グループ、後ろには息が臭すぎるのにわざとかと思うくらいため息ばかりつくサラリーマン。はやくライブ始まってくれの一心で私は耐えまくっていた。

余談だけどインスタ映えグループは、間に1人で来ているであろう全然関係ない人を挟んで尚もお互いにひたすら喋り、その関係ない人にバカスカぶつかりまくり、大声で笑ったりしていたので「はやく滅びますように」と睨んでおいた。同時に一人で来ていたであろうその関係ない人になにかとびきり良いことがありますようにとも祈った。

 

4年ぶりのシガーロス。感動とかそういうざっくりとしたものでは言えないかといってうまく言葉にできない感情だった。

宗教、そう宗教だ。音に対して祈りを捧げるなんてことはおかしいのかもしれないけれど、宇宙が生まれて死んでまた生まれ変わる壮大なサイクルを二時間で体感した気がした。みんなの中にある細胞を満たす環境があるとしたら、それと同じ空気と大地をあの場所にいた人全てが吸い込んでグングン満たしたのではないかなあ。

 

自分たちの意志ではどうしようもできない自然の壮大さと同じ狂気と美しさを持つ彼らのライブを前にして私はただただ祈るしかなかった。佇んで全身で生を感じていたと思う。毛穴のすべてから呼吸して、静かに全身がビリビリ震えて開いていく感覚があった。

今すぐ死ぬ気は無いけれど、漠然と生きてて良かったと思った。空気と山と川と空と海とそういった自分のはるか手の届かない、でもいつも身近にある存在の音楽。生きるを許す音楽。

 

祈りを捧げるという感情

許される世界


 

うまく説明できないけれど、四年越しに私はまたビッグバンを体験した。直接的なものでは無いにしろ私にとって彼らの音楽が宗教であるのだと思う。ずっとずうっと聞いて生きようこれからも。

 

あと息がテロだったサラリーマンは内臓疾患が心配なので早めに病院に行ってほしいし、密集地に行くときは私もガム1億回噛むことにする。(騒がしい男女のグループには与える優しさの余地なし)

 

誰でもないところからの眺め

『誰も見たことがない魚は誰も見たことがない魚だとは知らない誰かにもう見られているかもしれないだろう』

 

 

きっと瞬きをすればそこは年末。

おどろく速さで夏を駆け抜けている。かつて私を苦しめていた宿題たちは存在せず代わりに長い休みは消えてしまった。あれあれいつの間にそんなトレードしたんだっけ。

 

知らない世界にいつの間にか住んでいる。いつだってそんな気分だ。同じ人間の殻をかぶって生きているのに5年前の私は今の私がこうなるなんて微塵も予想出来なかっただろう。計画性が無い、良く言えば行動力がある(思いついたらまずやってしまう)その性格は私を雑にしている、しかし遠くまで飛べる力になる。

 

私はあなたじゃない、あなたは他の誰かでも無い。知らないところに住んでいる沢山の誰かは私とは違う。

みんな自分の場所で生きている。その場所が変動しようがその人の場所には変わりがない。その生に貴賎はないけれど、でもどうしてもそこに違いは生まれてしまう。その違いを私たちはどう受け止めたらいいのだろう。

 

誰にも思いを重ねずに対話が出来れば糸が絡まる事は無いであろうに、どうしたってそこには私が自分が重なってしまうから単純に元通りなんて事にはいかない。だれでもないところから眺めることができたなら、と不可能なことを重いつつそれでも私はこの先も誰かとの(何かとの)わだかまりを絡まったままただ重ねていくしかないのだと思う。

 

そんな難しいことを頭で重い浮かべてもだらりととろけていく夏。日が沈まないのに時刻は夜で、ぬったりした空気の中をぺたぺたした安いサンダルでアイスを買いに向かう道のり。私は誰でもないところからは決して見る事の出来ない、このとろけた脳を抱えて過ごすことで、はじめて私であると思っているのかもしれない。

見たことのない魚を日常の連続の中できっとみんな見つけているのだろう。珍しいと思わないから口にしないだけであって。いつだってそこにあるのはあなたの前だけの出来事かもしれないのに。

 

夏はあっという間に終わるのだ。誰かの眺め、誰でもないところからの眺め、それはすべて自分を通した上での魚。

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くまのこオンザロード

友人の会ったこともない元彼から定期的に丁寧なメールが来る。

 

お墓が決まりました。

先月末納骨しました。

 

場所は私が今まで一度も降り立ったことのない街で、墓石には英語で苗字が彫られていた。

 

なんだか見慣れない姿になったもんだ。大好きなヴィヴィアンの服はどこにやったんだよ。

 

一家のお墓をまず先に娘が使う、その為に購入するという気分、想像ができないし曖昧な言葉はかけられないなと思っていたらお父様の電話番号を聞いたまま半年以上が経ってしまった。

 

世の中1抜けたをした彼女、今こそあなたの言葉が欲しいのになー、ずるいなーと思う三連休中日の夜。一向に居なくなった感覚は無い。実感が無いからぴえーーーんと泣き叫ぶ事もない。ただもうメールは返ってこない。

 

思い出が走馬灯のように…とか立ち直れないくらい深い傷が…とかではなく、ただただ彼女と私の時間がどんどん開いていくことを実感する。そんなもんだと思っているだろうか貴女は。実感は無くとも打っても返らない声に、ぼんやりと行き場の無い思いばかり消化しきれずたまっていく。当初は知らない元彼から連絡が来ることすらも追いつかない現実をどかすか投げつけられているようで、待って待って!とむしろイライラすらしていたのだけど、大切な誰かが居なくなるという事実を受け止められないのはみんな一緒だもんな。とうっすらとした柔らかさを持ってやりとりが出来るようになった。

 

生きるわー、なんとなく。

彼女が得られなかった生を私が代わりに!!

なんてことは思わないけどある程度報告できるくらいには生活しておかなければな、と思う。

 

数少ない私にとっての大切な人がいない夏。

教えてもらったアイスコーヒーのレシピで過ごす夏。

 

そのうち挨拶に行くし、お父様にも電話する。

私は私の納得する方法で落とし込むしかないんだろうな、そう思う。

 

物体が無いだけでこうも違うものか。 何が気持ちの問題じゃ。物体が無かったら終わりじゃ。

 

 

雨が止んだあとは

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私は人の恋愛をどうとか、相手の人はどうとか、それはやめた方がいいとか言いたくない。友人が選ぶ人はどこまでも大好きでいてほしい。大丈夫だよとずっと声をかけていたい。

世間でいうところの恋話で求められてもいないお節介を焼くコメントなどはクソだと思っているが、 それでも私の大好きな人が幸せそうで本当に嬉しいという気持ちは素直に伝えて帰宅した旅。

彼氏が全ての世界で生きていないけれど、家族でも友人でもなくまた別の自分の帰る場所があること、こころのよりどころがあること、大事にしたいなと思える人が増える事をお祝いせずにはいられまい!!と帰り際渡されたおみやげのチョコを片手にかんぱーいと祝杯をあげた自宅での深夜。

あ~!私の人生に関わる大好きな人達の所作1ミリ足りとも残らず見届けたい。

 

アイスは溶けるからカロリーゼロだよといって友人の彼氏のアイスまで食べてしまい申し訳なかった。

 

ずっとぐずついた天気だったけど帰り際わずかに晴れ間が見えて、今までぐっと苦しんでいた友人の未来を示すかのようで一人小躍りをした(怪しい)

みんなみんな誰かにとっての愛おしい人。

 

 

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はだしで芝生の上を跳ねるのは何歳になっても気持ちがいい

6月は無かった

 

と勘違いするくらい早かった。もう7月も4日過ぎてきっと今年は7月無いはず。

前髪をばっさり切ってヘルメットみたいになった。安全第一ステッカーでも貼ろうかな。

大量にもらったきゅうりをクーラーの効かない部屋でタンクトップ一枚着た私がバリバリ食べる、という姿が夏の定番。

先日きゅうりを大量にもらったのでそろそろ準備をしなければと思っている。

 

でも今年はようやくクーラーをつけるかな。

暑かろうがなんだろうがどうでもいいわと夏に対して諦めの心だったので、何も動かなかったわけだけど、連日吹き出る鼻血が「さすがに死ぬじゃん!」と私を電気屋へ向かわせる。果たしてクーラーと鼻血が繋がっているかは謎なんだけど。

 

あついあつい日、都会の住宅地前に敷かれた人工芝の上へおもむろにレジャーシート広げて乾杯をした先日。

私の親しい人の中で唯一飲酒をする彼女がすすめるお酒を数本飲み、歌を歌いながら漬物を食べていたら、通り過ぎるボートレース帰りのおじさん達に手を振られた。

「巷のおしゃれピクニックだとこんなアクション起こされないでしょうよ」と流石に3人ものおじさん(いずれもボートレース帰り)に手を振られたあたりで彼女がそう言った。エクストリーム飲酒寄合。人が働く時間から寝転がって歌をうたい酒を飲むのは尋常じゃないよな、そりゃおじさんも通ずるものがあると手を振ったのだろうよ、と。彼女は決して大声で笑ったり早口で喋ったりせず私たちは8割ヘラヘラしていた。

 

本当は都会のおしゃれなお店で静かにワインを…という年齢ではあるのだろうけど、芝生に転がり視線の先に居るのは猫だ!と思って近寄ったら剥がれた樹の皮だったりして、もはやそれが人生のすべてを物語ってるわ~と笑った。

理由が無くともよいはずなのに、わざわざ理由をつける為の行動を誰に責められたわけでもないけどついやりがちで座り込んでしまう。

 

起床、洗濯、食事、入浴、日々必ず行う項目のその延長にあるかのようなそれでいてささくれが治まるおだやかな時間を過ごしたい。芝生を後にし、新しいサンダルを買い、嬉しくて履き替えて、コーヒーをコンビニで手に入れ、なんでもない夕日を観てなんだこれは、愛しくて眠たい空気だなぁって微笑んだりした。そして気がつけばすこやかな心を手に入れたのだった。

 

すこやかな心、夏を乗り越える力を。

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雨とカエルとアジサイと共に

梅雨がやってきましたね。

よく降るねえ。

 

そんな会話をよくするようになった。梅雨入りしてまだ数日なのに。

田舎の話題は天気や田畑の事が多く、季節と密接しているなあと思う。世間では梅雨を嫌がる人がが多いけど、このあたりではようやく雨だ、恵みの雨だと昔ばなしのような雨に対する感謝の念が厚い。誰かのツイートにもあったけど、そうか梅雨とは本来美味しいお米やお野菜の為にはとても大切な時期であった、と生活に染み付く梅雨=ダメみたいな感覚を払拭したのだった。

誕生日が梅雨時期なのでいつも私の誕生日付近はみんな嫌なんだな、と幼いころに時期を恨んだりもした。6月生まれは賢い子が多いのよ、と言われて育ったので頑なにその肯定意見を握りしめて生きてきたのだけど、どうやらその説も人によりけりらしいと納得するしかない状況。

私もお米やお野菜のように雨たくさん吸収してどうにかならんもんか。

 

先日会った友人とは数えるともう10年になる付き合いで「ありがたや~。これからもどうぞよろしく~」と互いに深々と礼をした。街のど真ん中で。

定期で人生どうでも飯田橋とつぶやきつつ過ごすくらいに何も手に残らない生活をしており、我ながらどうなんだよおいとは思って唖然とする日もあるけれど気がつけば10年、誰かの記憶に留まっているのは大変うれしい。

カウンセリングの先生は私の事を「外界からの刺激を深く感じ取り、心に受け止める能力が高すぎる」となんとも高貴な感じで言ってはくれたものの、要は感受の門が開けっ放しなのでなにもかもお構いなしにドバドバ入って来ては一喜一憂して疲れてるんだから、しっかり門番備えろや!!という実態に立ちすくんでは見てみぬふりをしている。

 

面と中身は伴わないものよのう…とただ生きてきた道を振り返りつつ10年来の彼女たちは皆私のことを「精霊ぽい」だの「癒やしの生き物」だの言ってくれては大切に付き合ってくれているその位置に甘えている。ありがたく人間を離れてみるかと思った矢先、われら青春のSWIMMER終了のお知らせ。ファンシーの代表だったブランドが幕を下ろすだなんて…眩しさの、キラメキの、与えられた夢の終了だ。ガーン!

そうか時間と時代は確実に流れているのだ。突きつけられる現実に死んでも人間辞められんわと脱人間説からの脱。

梅雨が梅雨で良かったと気がつけたのだから、門番なしの心で良かったといつか思えるようになるだろうとまた10年進む気がする。

門番構えて無である心で10年過ごしたところで私の生活満たされた!とはならないのはなんとなく分かっている。お腹いっぱいになったとしてもクソつまらん時間だとは思いたくない。

 

人生に区切りを付けるのは苦手ではあるけれど、まあ歳を取るときぐらい気合を入れても良いでしょうと私のなかの穏やかな私が許可を出す。抱えきれない自分の「出来ない」を目の前に、乗り出せるのか私。死を選ぶこと無く進んだ自分を無(ム)では無いよと思えるように。

OK余裕 未来は俺等の手の中